SSブログ

判ノ木山西式土器2 [縄文時代]

萩山遺跡出土土器の中で、縄文時代早期条痕文系土器と思って分類していた土器片ですが、良く観察すると、貝殻による条痕と思っていた器面成形が、半截竹管状工具を束ねたもので施文した条線文であることが判ります。
IMGP3007.jpg
この土器は、7月24日に紹介した判ノ木山西式土器に比定されると思われます。ちょっと写真では判りづらいのですが、二条の垂下する条線に向って左右より綾杉状に条線を施文しています。これは、「有軸綾杉文」と呼ばれる文様で、判ノ木山西式土器にみられる特徴的な文様の一つです。
ちなみに、同時期の貝殻条痕文の施文された子母口式土器は↓です。器面にアナダラ属の二枚貝を用いて調整を加えたもので、明らかに施文具が異なることが判ります。
IMGP3003.jpg

子母口式土器2 [縄文時代]

7月13日の記事で、絡条体圧痕が施文された子母口式土器を紹介しましたが、今回は、同じ萩山遺跡から出土している別の文様が施文されている子母口式土器を紹介します。
IMGP2956.jpg
口唇部上に刻みを加え、口縁上部に1条の刺突列を施文しています。刺突は、半截竹管状の工具で施文されており、胎土には微量の繊維を含んでいます。刺突列以下の胴部には、明瞭ではありませんが、貝殻によると思われる条痕が器面調整として施されています。小片ですが、熊谷市では初の検出例です。
子母口式土器の標式資料として、『日本先史土器図譜』には、口唇部に刻みを持ち、口縁上部に1~3条の刺突列が施文された土器が掲載されており(下写真)、この土器も子母口式土器に比定されるものと思われます。
子母口式土器は、「資料不足の故もあって、容易に特徴を掴み得ない」(山内清男:1941:日本先史土器図譜)とされた土器型式で、現在、田戸上層式土器と野島式土器の間に位置づけられることが確定しているものの、前後型式や併行型式との関係等、未だ不確定な部分の多い土器です。
siboguti.jpg

局部磨製石斧 [縄文時代]

萩山遺跡の石器紹介No,6。今回は、頁岩製の局部磨製石斧です。
kyokubumaseisekifu.jpg
やはり、縄文時代早期撚糸文期に特徴的な石器です。
局部磨製石斧は、約3~4万年前の後期旧石器時代初頭に登場しました。刃先にミガキをかけた石斧で、大型獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的に用いられた石器と考えられています。この石器の出現時期は、日本出土のものが世界最古とされています。
縄文時代になると、石斧の幅が細くなることから、限定的な用途に用いられるようになったと考えられ、早期以降は製作されなくなる石器です。

判ノ木山西式土器 [縄文時代]

現在整理作業を進めている萩山遺跡。関東地方では、ちょっと見慣れない土器がありましたので紹介します。
IMGP2767.jpg
胎土に繊維を含み、口唇上端と口縁上部に細い円形竹管状の刺突列を施文し、口縁部には同様の工具による斜位の沈線が施文されています。
この土器は、長野県茅野市判ノ木山西遺跡出土土器をもとに、阿部芳郎氏により1997年に型式提唱された「判ノ木山西式土器」と思われます。
それまで不明となっていた、押型文土器に続く中部地方の早期後葉の土器群として設定されました。関東地方の編年では、田戸上層式から子母口式土器に並行する位置づけがなされており、先に紹介した子母口式土器と共伴しているものと考えられます。
この「判ノ木山西式土器」は、形式内容や分布域等未だ不明な点が多く、今回、長野県からかなり離れた埼玉県でその出土が確認されたことから、その伝播経路を含め、子母口式土器との関係等少しでも解明できればと考えています。

子母口式土器 [縄文時代]

現在整理作業を進めている、萩山遺跡。縄文時代早期の撚糸文式土器が多量に出土していますが、今回紹介する土器は、同じ早期でも後半段階に属する、条痕文系土器群の子母口式土器(しぼぐちしきどき)を紹介します。
この子母口式土器は、県内でもほとんどまとまった出土例がありません。絡条体圧痕文(らくじょうたいあっこんもん:細い縄を棒に巻きつけて押し付けた文様)というあまり聞きなれない文様を施文することを特徴とします。
IMGP2721.jpg
折り返し口縁の部分に、斜位に絡条体圧痕文が施文されています。
絡条体圧痕の施文箇所を接写したのが↓です。
IMGP2731.jpg
子母口式土器は、山之内清男氏(1902年 - 1970年)により、1930年に設定された土器型式ですが、層位的な根拠が得られず、山之内氏をもって「自信を以てこの式を説き得ない」とし、長い間、編年的な位置づけは確定していませんでした。この子母口式土器が層位的に確認され編年的位置づけが確定したのは、以外にもつい最近のことで、千葉大学考古学研究室によって調査された城ノ台南貝塚の報告書が刊行された1994年のことです。

マユ形石製品 [縄文時代]

千代地内に位置する権現坂遺跡より表採されている縄文時代中期の石器を紹介します。
『江南町史ー資料編1 考古ー』(1995年)では、中央のくびれ部に糸を絡めて重石として利用された石器と推測して、石錘として紹介しました。しかしこの石器は、マユ形石製品または、独鈷形石製品、白川型石斧と呼ばれる石器の一形態であることに(埼玉考古第46号「秩父の白川型石斧」:岡本孝之:2011年)、遅まきながら気が付きました。
IMGP2006.jpg
長さは7cm程で、石質は閃緑岩。顕著な使用痕は認められず、用途不明の石器です。
独鈷形石製品または白川型石斧と呼ばれる石器は、埼玉県内では秩父地方を中心に100例程の出土例がありますが、丸頭状を呈したマユ形状を呈したものの出土例は少なく、独鈷形石製品のの一形態として含めるべきものかについては、形式学的にも検討の余地があるようです。

有孔礫 [縄文時代]

萩山遺跡の石器紹介No,5。今回は、有孔礫。
自然石に穴のあいているだけの石で、用途は不明です。孔は、人為的にあけられたものでは無く、石の生成過程で異質の石材が混じり、転石過程でその部分が自然に抜け落ちたものと推測されます。
川原で見つければただの石ですが、萩山遺跡は、台地上に立地していますので、当時の人が川原で選別して運んできた石として、遺跡で出土すれば遺物となります。
IMGP2003.jpg
東京都府中市武蔵台遺跡でも撚糸文期の集落より、穴のあいた石が数点出土しています。ペンダントにしては重すぎますが、何らかの意図があって川原より採取してきたものと推測されます。

市内樋春地区には、「穴の薬師」と呼ばれる石仏があります。この薬師様は目の病気に大変あらたかで、目の病気が治るように願を掛け、治るとそのお礼として穴のあいた石を奉納したといい、石仏の周りには穴のあいた石が多数あります。
IMGP1993.jpg
中々見つからない穴のあいた石を見つけ奉納する行為が、病気を治してもらったことへの代価になっていると推測されます。↓は、奉納された石の一つです。萩山遺跡出土品と良く似ています。当時の人も穴のあいた石に何らかの価値観を見いだしていたのかも知れません。
IMGP2001.jpg

三角錐形石器 [縄文時代]

萩山遺跡の縄文時代早期の石器紹介No,4。今回は、三角錐形石器です。
スタンプ形石器と似た形状から、その一形態とする研究者もいます。別名凡字形石器。
形状は、三角錐形または四角錐形を呈しており、スタンプ形石器の機能と同様に、打ち欠いた底面を使用したと考えられています。
スタンプ形石器との違いは、形状が三角錐形を呈していること。側面は、平坦な自然面を裏面とし他面に整形加工を施すこと。分布域が、スタンプ形石器が南関東を中心とした関東全域に見られるのに対し、三角錐形石器は北関東に限られること。石質が黒色頁岩を用いることが多い等です。
IMGP1955.jpg
本遺跡は、三角錐形石器の分布南限付近に位置しており、200点以上あるスタンプ形石器に対し、数点しか確認されていません。

スタンプ形石器 [縄文時代]

縄文時代早期に属する萩山遺跡出土の石器紹介No,3。今回はスタンプ形石器です。
楕円形の河原石を打ち欠いて平らな面を作り出しただけの単純な形の石器です。上部の自然面を手に持ち、打ち欠いた平らな面を使用して、木の実等を潰した用途に使われたと推測されています。
縄文時代早期の撚糸文期に特徴的な石器で、関東地方の撚糸文土器を出土する遺跡から出土します。他の時期には見られず、なぜこの時期にだけこのような形の石器が必要とされたのかは解明されていません。
本遺跡からは200点以上のスタンプ形石器が出土しており、県内最多と思われます。石質は閃緑岩・砂岩が大半を占めており、荒川の河原より採取したものと考えられます。
IMGP1787-1.jpg

有溝砥石 [縄文時代]

縄文時代早期に属する萩山遺跡の石器紹介No,2。今回は、有溝砥石です。
有溝砥石は、扁平な石の片面または両面に、1条から数条の溝状のくぼみを持つ石器です。
石器や骨角器、木器の整形・研磨に使われた砥石と考えられており、縄文時代草創期から早期にかけて主に出土する特徴的な石器です。
石質はほとんどが粗粒砂岩で、数点結晶片岩製のものがあります。
↓は、半分以上を欠損しますが、溝状の研磨痕が2条認められます。遺構外出土で、石質は砂岩。
IMGP1769-1.jpg

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。