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埼玉県唯一の「戦災指定都市」熊谷の特集記事:「埼玉土建」機関紙 [戦跡]


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熊谷市は終戦直前に米軍による句集を受けた都市として、埼玉県唯一の「戦災指定都市」となっています。本年は戦後75年特集として戦争に思いをめぐらす機会が増えています。
「埼玉土建一般労働組合」の機関紙の戦争特集として、米軍資料からの調査などが掲載されました。
記憶の風化が叫ばれる今日、戦争の情報を記録する必要性が高まりを見せています。





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小原陸軍飛行場跡を訪ねて [戦跡]

 江南公民館主催の「江南ウォーク―秋のコース」に案内人として参加してきました。曇天のなか頬をなぜる北風に冬の到来をつよく感じましたが、遺跡を巡る参加者は飛行場の存在を初めて知った人も多く、熱心に飛行場の痕跡を捜していました。
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写真 ウォークの様子

 現在は埼玉県農業技術研究センター付近に残る地割から滑走路を想像するしかありませんが、唯一残る「掩体壕」を巡り、かつて戦闘機や練習機が翔けた空を見上げました。
三ヶ尻には熊谷飛行場など市域には戦争遺跡がまだまだあります。これらの戦争遺跡は土に埋もれ行くのは仕方のないことでしょう。ただ、記憶の中に埋もれさせてはいけないのではないかとの思いを抱いた方も多かったようです。
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写真  広々とした空間が広がる埼玉県農業技術研究センター付近
堀の右側に沿って滑走路が奥方向へ延びていた。(今回とは別時期に撮影)

参考資料「旧小原陸軍飛行場(熊谷南飛行場)跡説明 航空写真 1946」(PDF:1.1MB)
参考図書『江南町史 通史編下巻』 平成16年 江南町刊行
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講座「米軍資料から読む熊谷空襲」資料のスライドショー [戦跡]





本年7月に妻沼中央公民館で開催されたけやき大学歴史講座「米軍資料から読む熊谷空襲」資料のスライドショーをYouTubeサイトにて公開しています。終戦直前に被害を受けた熊谷空襲について米軍資料を解読しながら、その戦略計画などについて学ぶ資料となっています。熊谷空襲という悲劇の根源にある歴史的資料について再認識する機会になればと考えています。



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講演「米軍資料から読む熊谷空襲」 [戦跡]




 7月に妻沼中央公民館で開催されたけやき大学平和学習会「米軍資料から読む熊谷空襲」の様子を動画収録し、YouTubeの江南文化財センターのサイトにアップしました。当日はJ:COMの取材もありJ:COM熊谷・深谷のデイリーニュースで放映されました。講演では熊谷空襲に関する米軍資料の解明について重点を置いて説明しました。戦争体験者の証言を補完する上でも重要な意味を持つ米軍資料に着目し、今後も調査研究を進めていけたらと考えています。また、本講演に係り熊谷空襲の直後に起こった神奈川県の小田原空襲について取材を進めていた東京新聞特報部からも問い合わせがあり、戦略計画の練られた熊谷と、戦略計画もなく終戦最後の空襲となった小田原との比較などが、後日、新聞に掲載されました。平和学習については終戦日の前後に多く機会が設けられていますが、一年間を通して学び、継承していくことが必要なのかも知れません。


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終戦記念日―小原陸軍飛行場の回想 [戦跡]


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昭和19年の小原陸軍飛行場の造成作業を担った旧制中学生などの群像


 終戦記念日となる今日、一つのコラムをここに記したい。

 毎年ロンドンで開催されているクラシック音楽の祭典「プロムス」。2015年の現代音楽部門では、埼玉県出身の若き作曲家、薄井史織さんが新作を発表し高い評価を得た。曲名は「オーフィオコーディセプス・ユニラテラーリス・エス・エル」。作曲者は増殖する自然の菌を連想し命名したと説明している。音楽の意味を理解することは難しいが、私は曲名と独特の不協和音の響きから、熊谷の江南地域にある深い森とその湿潤な木陰を思い起こした。

 戦前、江南地域には小原陸軍飛行場と呼ばれる熊谷陸軍飛行学校の補助施設があった。その飛行場は地元住民と当時の県立熊谷中学などの学徒により広大な森林伐採と滑走路への整地が進められ、昭和19年に完成した。通称アカトンボという95式1型練習機の離着陸が主要の役割だったが、戦争終盤には特攻基地へ向かうゼロ戦の配備もあった。

 国内最後の空襲の一つ、熊谷空襲の前日の8月13日、小原飛行場も米軍機による機銃掃射を受け、飛行機や周辺施設が焼失した。戦後、同地の大半では森林が再生し滑走路の形跡は見当たらないが、「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる飛行機の格納跡が残されている。

 現代の音楽が戦争の記憶を伝える森の生命力と結びつき、平和の意味を問いかけている。





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Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶 」のコーディネート [戦跡]


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熊谷市立熊谷図書館での取材の様子


 現在、ヤフー株式会社(以下、Yahoo! JAPAN)は、戦争の記憶や記録を伝える100年プロジェクト「未来へ残す、戦争の記憶」として戦争当時の様子を伝える動画などのオリジナルコンテンツを公開しています。この度、Yahoo! JAPANのプロジェクトチームが、終戦直前に起きた悲劇である「熊谷空襲」を題材に取材することとなり、市内にある資料調査や体験者の証言を得るためのコーディネートを行いました。
 Yahoo! JAPAN取材班は、熊谷市立熊谷図書館にある資料展示室や、熊谷空襲を体験した石山美江子さんのもとを訪れ、撮影やヒアリングを進めました。同チームはこれらの動画や取材記録として熊谷空襲をデジタルアーカイブスすることを目的にプロジェクトを運営し、戦後70周年の際に米軍資料解読によって判明した情報などを取りまとめ、熊谷空襲の記憶を動画として公開する予定です。こうした取材データの集成により戦争の記憶がオープンデータとしてアーカイブスされ、「未来へ残す、戦争の記憶」のサイトで公開されることになります。なお、同チームの取り組みについて、テレビ東京のニュース番組「ワールドビジネスサテライト」の取材もあり、放映される予定です。


Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」については次のサイトをご参照ください。
https://wararchive.yahoo.co.jp/



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講演「米軍資料から読む熊谷空襲」 [戦跡]


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 7月30日、妻沼中央公民館にて同館を拠点として生涯学習を進める市民大学の「けやき大学」の平和学習会として「米軍資料から読む熊谷空襲―熊谷空襲をめぐる米国戦略爆撃調査団文書に関する考察―」を開講し、約250名の受講者がありました。米軍資料の翻訳などを通じて熊谷空襲の実態に着目し、終戦直前の空襲がなぜ行われたのかなどを紐解きました。特に米軍のインテリジェンス(分析戦略)など、今までにない空襲研究の一様をお伝えできたと思います。





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熊谷空襲の痕跡―市内工事立合調査の一コマから― [戦跡]

 市内遺跡隣接地での工事立会調査に際し、新築建物の基礎の入る根切溝から火災痕跡を残す瓦・陶器などの混在する灰燼層が現れました。この地には戦後すぐに建てられた家屋があったこと、また当時の被災地図の範囲内に入っていることから、瓦礫は第二次大戦時の熊谷空襲による被災遺物層である可能性が高いと考えられます。 現地表から約15cm下位に深さ30~50cm程の大きな穴を所々に掘り、瓦礫を埋め片付けたと想定されます[写真1]。
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 木炭片や焦土も多量に含まれ、瓦礫層の厚さは最大で50cmもありました。瓦礫に含まれる瓦は当時の住宅によく使われた桟瓦[写真3]で、対角に組み合わせの切り欠きを持つものです。陶器には瀬戸焼の皿や甕の破片、溶け歪んだガラスなどもありました[写真2]。
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 当日は、夏日だったとか。熊谷のあの日は思わずにはいられない立会の時間でした。
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 なお、熊谷市内の空襲範囲を示す「ジオラマ模型」が市立図書館郷土資料展示室にありますので、ご案内しておきます。
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