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群馬 高崎の旅ー熊谷の名工の足跡を辿るー その3.妙見社本殿 [熊谷の名工]

 妙見社は、伝承では千年以上前に創始されたといわれています。中世に、有力武士の信仰を集めたようですが、度重なる火災により従来の面影は残していません。
 現在の本殿は、天保14年(1843)に再建されたものです。彫刻を手がけたのは、榛名神社双龍門https://kumagayasibunkazai.blog.ss-blog.jp/2020-08-20、北野神社本殿https://kumagayasibunkazai.blog.ss-blog.jp/2020-08-24の彫刻を制作した、熊谷市玉井村出身の彫刻師・長谷川源太郎です。説明板には「彫刻は素彫のケヤキ木目を生かした表現である」とあります。
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 地紋彫が施された柱。
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 屋根下部分の彫刻には、彩色が施されていたのでしょうか。胡粉下地の名残が残っているようです。
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 社殿東側と西側に施された緻密な胴羽目彫刻。
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 風化して文字はほとんど確認できませんが、社殿北側には大きな奉納額が掲げられていました。


 妙見社本殿は、幕末を代表する寺社建築であり、高崎市の指定重要文化財となっています。


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群馬 高崎の旅ー熊谷の名工の足跡を辿るー その2.北野神社 [熊谷の名工]

 榛名神社を参拝した後、同じ高崎市内の箕郷町生原にある北野神社に向かいました。
 北野神社本殿は、榛名神社の双龍門を手がけた大工棟梁・清水和泉と、熊谷市玉井村出身の彫刻師・小林源太郎(注1)により文久元年(1861)に完成しました。
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 最近、修復を行ったのでしょうか。唐破風の屋根下部分や板戸に使用されている木材が、まだ新鮮な色合いをしています。柱や梁、彫刻部分は以前のものを再利用しているようです。
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 屋根は、木造檜皮葺の唐破風造り。本殿は木製の覆屋で囲われていますが、柵の間からその様子を見ることができます。細部まで非常に緻密な彫刻が施されています。
 海老虹梁に巻き付く龍の彫刻は、榛名神社を思わせます。
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 布袋らが囲碁に興じる様子は、熊谷の国宝・歓喜院聖天堂奥殿の大羽目彫刻と類似しています。
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(写真下)歓喜院聖天堂奥殿大羽目彫刻 西面中

 北野神社本殿は、高崎市の指定重要文化財となっています。


(注1)小林源太郎・・・寛政11年(1799)~文久元年(1861)。熊谷市玉井村生まれの彫刻師。   
           一般に熊谷源太郎。初代小林源八正信を継いだ二代目。本姓長谷川。弘化2
           年(1845)越後へ旅立ち、以後、新潟県内にて「日本のミケランジェロ」と称
           された石川雲蝶との多くの共作を残した。源太郎の作品と伝えられている
           ものは、高崎市・榛名神社双龍門、新潟県魚沼市・西福寺鐘楼、東松山・
           箭弓稲荷神社等がある。



参考文献
阿部修治 2020 『甦る「聖殿山本殿」と上州彫物師たちの足跡』 株式会社さきたま出版
日下部朝一郎 1982 『熊谷人物事典』
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群馬 高崎の旅ー熊谷の名工の足跡を辿るー その1.榛名神社② [熊谷の名工]

 「双龍門」をくぐり、階段を登ってさらに奥へ進むと「本殿・幣殿・拝殿」、「国祖社・額殿」、「神楽殿」が現れます。
 緻密な彫刻が施され、榛名神社の建造物の中でも最も荘厳で華麗な「本殿・幣殿・拝殿」は、まだ修理工事が行われていなかったため、拝観することができました。
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 権現造の様式で、岩に組み込むように建てられた他に例のない珍しい社殿です。
 黒と朱色の漆塗りが残るのみで、屋外で風雨にさらされた社殿の彩色は剥落し、そのほとんどは失われていますが、拝殿の海老虹梁に巻き付く龍の彫刻や丸彫りによる霊獣、緻密な籠彫りなど、躍動感のある彫刻は、どれも圧倒されます。
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 この榛名神社「本殿・幣殿・拝殿」の彫刻は、彫刻師・関口文治郎の最後の作とも言われています。文治郎は、“上州の甚五郎”と称され、師匠の石原吟八郎とともに、熊谷市妻沼の国宝・歓喜院聖天堂の再建に携わった人物で、多くの県・市指定有形文化財にその名が刻まれています。
 また、榛名神社の建立には熊谷市三ヶ尻村の内田家も携わっています。三ヶ尻村の内田清八郎も、国宝・歓喜院聖天堂の造営に深く関わった人物です。熊谷市上新田にある諏訪神社本殿は、清八郎が大工棟梁となり、歓喜院聖天堂の大工棟梁を務めた林兵庫正清、彫刻師の石原吟八郎とともに制作した建造物で、埼玉県指定有形文化財となっています。
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諏訪神社本殿

 2017年からはじまった榛名神社の保存修理工事は、2025年12月に完了予定です。5年後、修復の完了した榛名神社を見るのが今から楽しみです。



参考文献
阿部修治 2020 『甦る「聖殿山本殿」と上州彫物師たちの足跡』 株式会社さきたま出版
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群馬 高崎の旅ー熊谷の名工の足跡を辿るー その1.榛名神社① [熊谷の名工]

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 榛名神社は、群馬県にある上毛三山の一つである榛名山の中腹にあります。この日は、日差しの照り付ける暑い日でしたが、山の中の参道はひんやりと涼しく、幽玄な空気が流れていました。
 榛名神社は、2017年から❝平成の大修理❞を行っており、国指定有形文化財である「本殿・幣殿・拝殿」、「国祖社・額殿」、「神楽殿」、「双龍門」の4棟の保存修理工事が、現在も進められています。
 訪れた際には、「双龍門」と「国祖社・額殿」が修復中でした。漆塗り、彩色、飾金具の修復を担当するのは、熊谷市妻沼の国宝・歓喜院聖天堂の修復も手がけた小西美術工藝社です。
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 ちょうど漆の塗り直し作業を行っていたようで、漆特有の臭いと漆によるかぶれについて注意喚起する看板が設置されていました。

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修理工事中の双龍門

 「双龍門」が建てられた年代は、これまで古文書の記録から安政2年(1855)とされていましたが、今回の保存修理工事で発見された棟札から建立は安政3年(1856)であることがわかりました。
 双龍門を建てた大工の棟梁は、群馬郡富岡村の清水和泉守充賢。そして彫刻を担当したのが、熊谷市玉井村出身の長谷川源太郎(1799~1861年)です。源太郎は双龍門が完成した後、清水和泉が建てた高崎市箕郷町にある北野神社の彫刻も制作しています。また、源太郎は弘化2年(1845)越後へ旅立ち、以後、新潟県内にて「日本のミケランジェロ」と称された石川雲蝶との共作を多く残しています。
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「双龍門」の彫刻

                                         続く
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熊谷の名工 林兵庫 [熊谷の名工]

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 近世近代期の熊谷市の大工棟梁や彫刻師の手掛けた建物や彫刻を紹介してきましたが、まだまだ、名工と呼ぶべき人々がおります。その一人は林兵庫正清といい、妻沼に拠点を置いた大工棟梁林家の人物で幕府の作事方大棟梁の平内家とも関係が深いとされます。日光東照宮をはじめ幕府主導の建築物に関与しています。また、林家に連なる大工棟梁には三ヶ尻の内田清八もおり、市内の寺社建築を手掛けています。
 妻沼といえば国宝建築となっている『妻沼聖天堂』がその代表的な作品です。建築は林兵庫正清と子息正信が主導し、彫刻は石原常八をはじめとする飯田家、小林家らの一門の彫刻師らが技を競っています。彩色は狩野派の絵師によるものです。林家はプロデューサーとして全体計画と各職人たち管理し指示しています。その後も林家をはじめ門弟たちや彫刻師らはチームを組むかのように三峯神社本殿・拝殿(秩父市)や箭弓神社本殿・拝殿(東松山市)、八宮神社本殿(比企郡小川町)などの建築や装飾彫刻の製作に加わっています。名工達の技の冴えを鑑賞するのも良いかと思います。参考図書は次のような書籍があります。
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三峯神社本殿・拝殿(秩父市)
熊谷市2016『熊谷市史 別編2 妻沼聖天山の彫刻」
若林 純2011『妻沼聖天山 歓喜院聖天堂―彫刻と彩色の美-」平凡社刊
阿部修治2011『甦る「聖天山本殿」と上州彫刻師たちの足跡」さきたま出版会
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名工のルーツ 石原吟八郎 [熊谷の名工]

 前回までに飯田和泉 小林源太郎 石川雲蝶らを輩出した飯田家(大麻生)、小林家(玉井) 石川家(深谷市中瀬)を紹介しました。彼らは彫師として一家を立てていますが、いずれも石原吟八郎の門に学んでいます。石原吟八郎は日光東照宮の造営や補修に際して活躍した彫刻師の家柄で、後に群馬県花輪村(群馬県みどり市)に根付いたことから彼の元には近隣から多くの門弟が集りました。石原家、飯田家・小林家・石川家は寺社彫刻を主に彫技を振るい、妻沼聖天堂、諏訪神社本殿の製作に関わっていきます。各家は世代を超えて協力し、あるいは競い合うなどして多くの作品を今に遺しています。
参考『熊谷市史 別編2 妻沼聖天山の彫刻」2016
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写真 石原吟八郎の墨書(上新田諏訪神社本殿棟木銘)

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写真 諏訪神社本殿彫刻の一部
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写真 諏訪神社本殿向拝奥の人物彫刻
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精緻な彫刻を求め続けた名彫刻師  小林源太郎 [熊谷の名工]

 飯田家と共に寺社仏閣の彫刻に秀でた小林家が江戸後期に熊谷市玉井に現れます。初代原八から源太郎、丑五郎、栄次郎、栄吉、義雄、貞雄らが昭和までに排出し、各地で腕を振るい多くの作品を残しています。
 特に源太郎は芸術家肌の面があり、40代半ばで家を出て旅先の土地で多くの寺社彫刻を製作しその地で生涯を終えています。手がけた彫刻は新潟県・群馬県に多々所在し、その地域の文化財となっている例もあります。源太郎の手掛けた彫刻は西福寺向拝彫刻(新潟県) 石部神社本殿彫刻(新潟県石地町) 弥彦神社向拝彫刻(新潟県) 榛名神社随神門彫刻(群馬県)などがあり、新潟では当時江戸の名工と言われた石川雲蝶との競作も伝えられます。
 源太郎は熊谷の出であることから熊谷源太郎とも呼ばれることが多く、新潟県与板町都野神社に示した見積書に当たる彫物仕様では「武州熊谷宿 彫工 小林源太郎』と署名が見えます。
 栄次郎は熊谷うちわ祭りの第一本町区山車彫刻や現在の武蔵国分寺本堂向拝の飛龍、獅子などの彫刻を残しいており、小林家の手がけた彫刻は関東一円に残されているようです。
参考、「熊谷人物事典」日下部朝一郎 編  木原 尚 1993 『越後の名匠 石川雲蝶』
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写真 源太郎の仕用書
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写真 秋葉三尺坊奥の院向拝彫刻(新潟県栃尾市)
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飯田家に連なる匠 [熊谷の名工]

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野原文殊寺 鐘楼門 奥に本堂
 飯田和泉守の供養碑に刻まれた子弟の匠たちの名に「細井平左衛門」があります。彼は熊谷市板井の出身で明治時代に野原八幡神社や文殊寺の鐘楼門を造っています。文殊寺本堂は飯田和泉が差配し、向拝の彫刻を手掛けています。この本堂は昭和10年代に焼失し残ってはいませんが、子弟でそれぞれの建物を競作していたことが窺われます。
 細井家には、細部の彫刻まで描かれた神社本殿の絵図が残されています。完成予想図として施主や氏子たちに示した図でしょうか。この図には社名が描かれていないのでいずれの神社かは知れませんが、龍女と思われる女神や、霊亀、鯉魚、龍など池水にかかわる図象が組み合わされることから、水辺に臨む神社とも想像されます。見つけてみたいと思います。
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琴を弾く女神(龍女か)  某 神社仕方絵図 左側面図
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大麻生川原明戸の生んだ宮大工にして彫刻師 飯田和泉守 [熊谷の名工]

 飯田家は久能山東照宮の五重塔改修の折に、名工としての名を馳せ、「和泉守」を拝命したことから、代々宮大工棟梁としてその名を継いでおり、江戸時代後期から明治時代までに各地に多くの作品を残しています。飯田家の一族には建築だけでなく彫刻にも優れた人材も輩出しており、残された作者名からは「飯田岩次郎」「飯田仙之助」「飯田常吉」「飯田竹三郎」「飯田元三郎」「飯田勇次郎」「飯田岩吉」「飯田岩五郎」等の名がみえます。これらの名を残す建物や彫刻には次のようなものがあります。
 箭弓神社本殿彫刻(東松山市)、文殊寺(熊谷野原-焼失前)、三峯神社水屋(秩父市)、雷電神社(東松山市)。妙安寺観音堂(東松山市)、秩父市中町屋台欄間彫刻(秩父市)、秩父市本町屋台表鬼板彫刻(秩父市)、熊谷市本町区祇園祭御神酒枠などが挙げられます。まだ知られていない作品も多々あると思われるので、寺社建築や旧家の欄間彫刻などに注意が必要です。
 飯田家の名工たちは河原明戸の妙道寺に葬られており、墓石のひとつには飯田家に連なる多数の子弟の名(近隣の匠と呼ばれた大工たち)が刻まれていることから、かれらの育成にも関わっていたことが知られます。
 参考、「熊谷人物事典」日下部朝一郎 編
image001s.jpg 大麻生河原明戸 明道寺
image003s.jpg 門弟たちの名を刻む台石

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写真「祇園祭御神酒枠」熊谷市第一本町区
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オオカミの御山―三峯 [熊谷の名工]

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 秩父地方に伝わる伝説ではヤマトタケルノミコトの東国への進路は知々夫国に入り、オオカミの案内を受け険路に迷うことはなかったとされます。これを機縁に三峯に東国鎮護の社として三峯神社が造られ、オオカミは神の使いとして現在までも信仰の対象とされています。整備された参道により容易に参拝することができますが、かつての参道は難路だったようです。この三峯山内には本殿建築のほか多くの建築物があり、熊谷の宮大工であり彫刻師であったに飯田和泉の手がけた建築物があります。本殿近くの水屋建物がそれで、八方にらみ龍といわれる見事な龍の彫刻を見ることができます。飯田和泉は三峯のほかにも秩父山車屋台を飾る彫刻も手がけており、秩父地方に多くの足跡を残しているようです。
 なお、三峯信仰には江戸末期に日本でコレラが蔓延した際に、病除けに多くの信仰を集めたとされます。そのために参拝したのではないのですが、今の世に通じるような部分もありそうに感じられました。
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