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遺物整理の現場から 10 ―須恵器坏と椀に見える小石 [整理作業]

 どの瓦も硬く焼しめられ千年余を経ても布目・縄目の痕跡を良く残し、あまり風化を感じさせません。粘土も精製された土が多く小石などの夾雑物は少ないように感じます。特徴的な混入物としては南比企窯跡産の須恵器・瓦に多量に含まれる白色針状物と呼ぶ粒子が観察されます。前回までに記したように使用された粘土からも南比企窯跡で造られたものと思われます。一方、東院集落から出土する日用の須恵器椀坏類は南比企窯産の他に寄居町を中心に所在する末野窯跡産の製品も多く含まれています。この製品の中で特に目立った出土品は写真の須恵器坏や碗です。割れ口に土器の厚みより大きい小石が挟まっています。後から入れたものではなく元々石の多く含まれた粘土を使用したことが考えられます。写真の坏の場合、小石の大きさは土器の厚みを超えています。製作者の工人は、景色としてこの小石を残したのでしょうか。ろくろ引きの時には指当たって痛かったと思います。
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遺物整理の現場から 9 ―瓦の産地はどこか― [整理作業]

 「御」はヘラ描で書かれ、平瓦と丸瓦の両者に確認されます。瓦の文字は生産者を明示するために記されたと考えられることから、生産を割り当てられた郡・郷と個人の協力者の名などに分けることができます。「御」平瓦は薄めの粘土板を使い布目と縄叩きの残る良質な製品で9世紀中ごろに造られたと推定されます。この時期に先の特徴を持つ瓦を造った場所は近隣では比企丘陵の南部に位置する嵐山町・鳩山町・ときがわ町の窯跡が知られており、中でも瓦製造工房跡の発見された雷遺跡と赤沼・新沼・金沢・篩新田の諸窯跡で造られたと考えています。「続日本後記」には承和5年(845)に武蔵国分寺七重塔再建に関する記事がみえ、先の遺跡はこの瓦生産に対応した遺跡であったと考えられています。
 寺内廃寺から出土する多くの瓦もこの時期に造られたものが主体であることから、武蔵国分寺に納入される瓦の一部が寺内廃寺にもたらされたようです。その背景には、武蔵国分寺七重塔の再建にかかわった男衾郡大領「壬生吉氏」の強い関与が考えられ、この時期に壬生氏の氏寺(寺内廃寺)を大規模に改修した際に使われた可能性があります。
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寺内廃寺金堂・塔の想定復元(江南文化財センター展示中)

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遺物整理の現場から 8 ―「御」とは何のことか― [整理作業]

 寺内廃寺の瓦整理の途上、丸瓦(男瓦)の内面にヘラ描細線のある破片が見出されています。
 同類を集めてみると文字であることが判りました。平瓦(女瓦)に刻印やヘラ描文字が記される資料は寺内廃寺でも相当量ありますが、丸瓦例は少なく貴重な例のようです。文字は生瓦の状態から乾燥が進み粘土が硬くなった時点で描かれたと思われ、細い線でありながら大きな文字です。字画は簡略化され連続していますが「御」と読めそうです。寺内廃寺出土瓦には1文字から数文字のヘラ描と刻印がありました。いずれも武蔵国の郡、郷名を記してあり、武蔵国分寺へ献納されるため製作された瓦が使われたと想定しています。
 「御」が郡郷名とすると「御」と共通の読みや実際に使われた文字には、「橘樹郡御宅郷(美也介)」、「横見郡御坂郷(美佐加)」、「秩父郡美吉郷」の=美=御、「御」である可能性があります。「御」の文字瓦は、生産跡である南比企窯跡、南多摩窯跡等、そして供給先である武蔵国分寺跡から出土した瓦中にはこの文字はまだ発見されていないようです。
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丸瓦(男瓦)の内面に書かれた「御」文字
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平瓦(女瓦)の内面に書かれた「御」文字

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遺物整理の現場から 7 ―ウルトラCの接着剤― [整理作業]

 接合作業では、接着剤が必要です。接着剤は再度の修理ができるように、遺物を傷めない性質と分離可能な強度を持つものを使います。当センターで使っているのは「セメダインC」です。おそらく発掘関係者には昔からのお馴染みでしょう。この容器は押し潰したり、丸めたりして溶剤を絞り出したのちは廃棄してしまうのが常ですが、最近このチューブが昭和時代の遺物保管箱から出できました。(写真中下)先尖りの赤いキャップで出口に穴を開けるタイプでロゴもクラッシックな趣です(※)。現在のパッケージと比較すると、様式の変化が顕著に表れています。現行品(写真上)に使い慣れてしまうと、以前はこのような姿をしていたことはまったく忘れ去っていました。セメダインにも歴史(創業80年以上の老舗)ありですね。ちなみに「セメダイン」は社名できあるとか、すると製品名は「C」になる? !!その通りだそうです!!
 ※このチューブは昭和36年以降に製造されたものとされます。製造刻印は「60302」とあり「1963年2月」とすると昭和38年の製造になるのでしょうか。この頃、野原古墳や権現坂埴輪窯跡の発掘調査が行われていました。
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遺物整理の現場から 6 ―瓦の接合作業― [整理作業]

 出土品の整理にはいくつかの工程がありますが、土器などを元の形に復元し修復する作業はある意味、楽しいものです。文様のつながる破片を探し出し、元の形を想像しながら破片を接合し組上げる作業から、壺や甕や埴輪が再生されていくのです。経験豊富な調査員はこの破片が原形のどこの部分であったかを即座に想定し、接合する破片を探します。
 ズバリと的中し形が見えてくると思わず歓声が出でしまうこともあります。
 多数のピースから全体を作り上げる作業を究極の神経衰弱ゲームに例えるられるようです。ただ、出土品のピースはいつも全部が揃っているわけではないので、どうしても欠けた部分が出てきてしまいます。この場合には石膏などで補填し、補彩して一応完成とします。博物館などで完品の資料が展示されている場合、どの部分がそうなのか良く観察される事は大切なことです。
 写真は、寺内廃寺の丸瓦(男瓦)の接合風景です。文字通り瓦礫の山から一片を探し当てる作業を職員は続けています。似たもの同士の破片では、色合い・厚み・ケズリ・ナデの特徴などから類別していくのですから、試行錯誤の接合作業ではいつの間にか軍手にも穴が開きます。
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遺物整理の現場から 寺内廃寺出土「灯明皿」 [整理作業]

 寺内廃寺の灯明皿は復元できる坏や碗でその数は500点ほどを数え、復原の難しい細片では千数百点に及ぶでしょう。これらの灯明皿に残る灯芯痕を見ると、1か所から何か所も残る場合があり使用状態が異なっていたと考えられる例があります。集落で使用されることの多い須恵器坏や須恵器碗から転用と思われる灯明皿も多数見つかるなかで、数回程度の使用しか認められない灯明皿は、特別な場所か特別な法会などに使用されたとも想定されます。
 以下の写真は、油分とススの固着分部で、灯芯の位置が白抜けした状態で観察されます。
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遺物整理の現場から 寺内廃寺出土「灯明盤」の「文字」2 [整理作業]

 写真の土器は寺内廃寺出土灯明盤の「刻書土器」例の二例目です。2点出土していますが、読むことができませんので、示す意味が図りかねます。「上」「ハ」または、「一」「六」の合字でしょうか。それとも記号なのでしょうか。「赫坏」の文字と同筆のように思われ、一応文字と考えますがお気づきの方はぜひご教示ください。「赫坏」と同様に坏内底面にヘラ書きされています。
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寺内廃寺出土刻書土器
 なお、字画で類似する例では本遺跡より2km内の宮下遺跡より「卜之」の合字と推定される墨書が5点出土しています。異なるように見えるのですが字配・表記・5画と共通する点もあり、注目しています。
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宮下遺跡Ⅲ出土墨書土器

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遺物整理の現場から 寺内廃寺出土「灯明盤」の「文字」1 [整理作業]

 寺内廃寺から日々の燃燈や法会に使われた灯明盤に文字が残されている資料を前回(出土瓦に残る文字1「郡名瓦―その1」)までに墨で書かれた「墨書土器」として紹介しましたが、今回は「ヘラ書き」された例を取り上げます。
 この文字資料は「刻書土器」と呼びます。本例刻書は土器を焼く前に書かれた文字で、文字の内容によって土器の性格付けがなされたことがわかります。このことは、共通する形、共通する特徴を持った寺内廃寺出土の土器は「灯明盤」として造られた可能性が高いと考えられることです。他の灯明盤では須恵器坏や碗、蓋も使用されていましたが、これらは転用品で本来はそれぞれの用途に使われる日用什器のうつわです。寺内廃寺の灯明皿は専用品は「灯明盤」、転用品は「灯明皿」と区別できると考えています。
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写真「赫坏」のヘラ書文字 灯明盤の内・側・底面

 この「灯明盤」の内底面には「赫坏」の文字がヘラ書きされ、「かくはい」と読むことができます「赫」は「ひかりかがやく」という意味と考えられ、灯明盤にふさわしい文字だと思います。この形をした灯明盤は一定の数が認められることから、寺院内での常用品とも考えられる一方、特別な法会のために特注されたとも推定されます。須恵器坏・碗などの日用什器のうつわは不足分として臨時的に使用されたと考えることもできます。まだ観察と検討が必要な状況にあります。
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遺物整理の現場から 土器に残る刻み目 [整理作業]

 古代の土器は完全な形で出土することは稀です。もともと衝撃に弱い土器は壊れやすく、日常使いの消耗品でしたから、発掘される土器は時代を遡るほど風化し、僅かの破片しか残らなくなります。完全な形を残す土器は大変貴重で稀な例ともいえます。
 そんな土器の小破片でも時代を特定できる資料となることから、整理を進めるうえで土器の観察を詳細に行っています。写真は寺内廃寺の東院集落に重なる縄文時代中期の集落跡から出土した貯蔵用の深鉢形の土器片です。粘土紐を巻き上げる方法で造られた鉢の胴部の一片です。粘土を重ねて接着した部分が平坦な凹凸となっていることが多い中で、写真の破片には刻み目が施されています。これは模様ではなく、粘土同士の接着をより強固にするためになされた工夫で、現在でも見る陶芸の基本技法です。偶然この接合部分で剥離したらしく縄文人の土器の作り方法を知ることができました。
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接合部にいれた刻み目
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刻み目に入り込んだ粘土の膨らみ
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粘土ひもの痕跡を残す凹凸状の剥離面

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遺物整理の現場から 土器に残る焦げ跡 [整理作業]

 寺内廃寺の寺域内からは多量の縄文時代遺物が出土しています。古代寺院の立地が元々縄文時代の遺跡の上になされたと考えられることがあり、中期の住居跡が東院集落内などから発見されています。また、基壇土や整地土などからも土器や石器の出土もあります。
 寺内廃寺の北側には西原遺跡という中期後半の大きな集落遺跡が発掘されています。寺内廃寺の寺域内に広がる縄文時代遺跡は西原遺跡の広がりの中に納まるものでしょう。写真は、煮焦げの付着した土器片です。このお焦げは有機物の炭化したもので食物由来のものと考えられ、ドングリやシイの実などのでんぷん質が焼き付いたと想定され、本例も当時の煮炊きに使われ煮汁や油分が固着したと考えられます。
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縄文時代中期加曾利EⅢ式土器の内面について ↑炭化物の拡大

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