「前中西遺跡」 弥生時代中期後半の大型掘立柱建物跡を確認 [弥生時代]
第三次調査全景切抜3推定
掘立柱建物跡
上之土地区画整理事業地内において埋蔵文化財発掘調査を実施しています。平成31年1月から3月に実施した、「前中西遺跡」発掘調査において、弥生時代中期後半(約2000年前)の独立棟持柱形式の掘立柱建物跡(9.5m×3.7m)を検出しました。これは一般的な建物ではなく、祭祀に係る象徴的な建物と考えられている¥ます。
本遺跡例は、衣川及び湧水地点近傍に立地することから、水辺の祭祀(自然信仰)に係るものと判断されます。また区画である柵または塀(布掘柱穴列というべき特殊な遺構)もみられ、祭祀空間を復元するための好例であります。
独立棟持柱形式の掘立柱建物跡、柵または塀による区画、祭祀対象がみられる検出状況は、県内初の事例です。
独立棟持柱形式とは、母屋(身舎)から棟柱を支える柱が飛び出ており、特異な形状の極めて珍しい建物であるといえます。独立棟持柱形式の掘立柱建物跡は、神奈川県小田原市中里遺跡や埼玉県熊谷市北島遺跡などの弥生時代の大規模集落にみられる象徴的な建物です。県内では3例目となりますが、区画と祭祀対象を伴う事例としては、県内初の出土例であると推定されます。
毎年、埼玉県内の調査を対象として実施される、「第52回遺跡発掘調査報告会」において詳細を報告します。どうぞご参照ください。
日時:令和元年7月28日(日)10:00~18:00のうち
場所:県立さきたま史跡の博物館
主催:埼玉県埋蔵文化財調査事業団、埼玉考古学会、県立さきたま史跡の博物館
(入館料に受講費含む)
観覧料 一般200円(120円)、高校生・学生100円(60円)
( )内は20名以上の団体料金
※ 中学生以下、障害者手帳をお持ちの方(付添1名を含む)は無料
熊谷ひみつ新聞 「地面の下には何が」 [弥生時代]
熊谷青年会議所が発行している「熊谷ひみつ新聞」に、江南文化財センターの「謎の人物」が登場しています。これは熊谷の全小学生に配布されている新聞で、地域の文化やトピックスなどを掲載しています。原始から古代時代の熊谷に着目し、コミカルに学ぶ内容になっています。また、妻沼聖天山の国宝「歓喜院聖天堂」などについても取り上げられています。どうぞご参照ください。
熊谷ひみつ新聞のURL
http://www.kumagaya-jc.or.jp/2019/himitu.html
前中西遺跡出土石戈 [弥生時代]
今年の5月~7月にかけて実施した、上之区画整理事業に伴う前中西遺跡の発掘調査において弥生時代中期後半(約2,000年前)の竪穴住居跡より、ほぼ完形の石戈(せっか)が出土しました。
全長19cmで、石材は粘板岩です。
「樋」と呼ばれる溝の中には「複合鋸歯文」が刻まれており、銅戈を忠実に模しています。
石戈とは、弥生時代に中国や朝鮮半島から伝わった武器形青銅器の銅戈を模してつくられた日本独自の祭器のことです。石戈は、武器形青銅器が出土する西日本に多数の出土例があり、東日本では25点程出土していますが、「樋」に「複合鋸歯文」が描かれるのは近畿地方で見つかる銅戈の特徴で、石製としては、今回の前中西遺跡出土例が全国初となります。
この石戈は、速報展として下記の通り展示いたしますので、この機会にぜひご覧ください。
会 期:平成27年10月1日(木)~平成28年3月31日(木)
時 間:午前9:00~17:00
場 所:熊谷市立江南文化財センター展示室:熊谷市千代329番地
休館日:土・日・祝祭日・年末年始
但し、10月4日(日)は、「くまぴあ」(熊谷市原島315番地)創作展示棟3階出土遺物展示室にて展示。10月25日(日)および11月14日(土)は、江南文化財センターにて展示。
お問い合わせ:熊谷市立江南文化財センター:048-536-5062
全長19cmで、石材は粘板岩です。
「樋」と呼ばれる溝の中には「複合鋸歯文」が刻まれており、銅戈を忠実に模しています。
石戈とは、弥生時代に中国や朝鮮半島から伝わった武器形青銅器の銅戈を模してつくられた日本独自の祭器のことです。石戈は、武器形青銅器が出土する西日本に多数の出土例があり、東日本では25点程出土していますが、「樋」に「複合鋸歯文」が描かれるのは近畿地方で見つかる銅戈の特徴で、石製としては、今回の前中西遺跡出土例が全国初となります。
この石戈は、速報展として下記の通り展示いたしますので、この機会にぜひご覧ください。
会 期:平成27年10月1日(木)~平成28年3月31日(木)
時 間:午前9:00~17:00
場 所:熊谷市立江南文化財センター展示室:熊谷市千代329番地
休館日:土・日・祝祭日・年末年始
但し、10月4日(日)は、「くまぴあ」(熊谷市原島315番地)創作展示棟3階出土遺物展示室にて展示。10月25日(日)および11月14日(土)は、江南文化財センターにて展示。
お問い合わせ:熊谷市立江南文化財センター:048-536-5062
諏訪木遺跡出土「土偶形容器」 [弥生時代]
7月~8月に発掘調査を行っていた、市内上之地内に所在する諏訪木遺跡より、弥生時代中期後半の「土偶形容器」がほぼ完全な形で出土しました。
この「土偶形容器」は、弥生時代中期後半の住居跡から出土したもので、これまで、諏訪木遺跡に隣接する前中西遺跡からも、土偶形容器は、破片での出土例はありましたが、ほぼ完全な形での出土は、県内では初めての例になります。壺形土器を元にして製作されたものと思われ、お腹の膨らんだ微笑ましい体形に見えます。胸の表現が無いことから、男性像と思われます。
器高18cm程の大きさで、頭頂部が開口し、中は中空となっています。頭頂部および底面に赤彩が認められます。大きな耳には、2箇所の穴が穿たれており、頭頂部および頬には縄文が施文されています。アゴの部分には剥落痕が認められ、髭またはアゴの表現がなされていたものと推測されます。頸部には横位の簾状文が施文され、両腕はお腹の前に置かれています。指の表現もあり、前腕部には3条の刻みが施されています。
耳の穴はピアス穴、首の頸部には横位の簾状文はネックレス、顔の縄文は刺青、前腕部の刻みは腕輪を表現しているものかもしれません。
耳飾りの風習は、縄文時代には確認されていますが、弥生時代にはほとんど見られなくなります。耳たぶの大きさの変化、あるいは狩猟文化から農耕文化へと移り変わる過程でのアニミズム(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂もしくは霊が宿っているという考え方)の変化など諸説あり定かではありません(参考:浜本隆志 『アクセサリーが消えた日本史』 光文社新書)。
この「土偶形容器」は、熊谷に居住した弥生人の様子が具体的にうかがえ、当地域の様相を研究・検討するうえで重要な資料となるものと思われます。
本資料は、平成26年9月29日(月)から、平成27年3月31日(火)まで、熊谷市立江南文化財センター(熊谷市千代329:048-536-5062:土曜日、日曜日、祝日、年末年始休館)展示室にて速報展示いたしますので、ぜひご覧ください。
この「土偶形容器」は、弥生時代中期後半の住居跡から出土したもので、これまで、諏訪木遺跡に隣接する前中西遺跡からも、土偶形容器は、破片での出土例はありましたが、ほぼ完全な形での出土は、県内では初めての例になります。壺形土器を元にして製作されたものと思われ、お腹の膨らんだ微笑ましい体形に見えます。胸の表現が無いことから、男性像と思われます。
器高18cm程の大きさで、頭頂部が開口し、中は中空となっています。頭頂部および底面に赤彩が認められます。大きな耳には、2箇所の穴が穿たれており、頭頂部および頬には縄文が施文されています。アゴの部分には剥落痕が認められ、髭またはアゴの表現がなされていたものと推測されます。頸部には横位の簾状文が施文され、両腕はお腹の前に置かれています。指の表現もあり、前腕部には3条の刻みが施されています。
耳の穴はピアス穴、首の頸部には横位の簾状文はネックレス、顔の縄文は刺青、前腕部の刻みは腕輪を表現しているものかもしれません。
耳飾りの風習は、縄文時代には確認されていますが、弥生時代にはほとんど見られなくなります。耳たぶの大きさの変化、あるいは狩猟文化から農耕文化へと移り変わる過程でのアニミズム(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂もしくは霊が宿っているという考え方)の変化など諸説あり定かではありません(参考:浜本隆志 『アクセサリーが消えた日本史』 光文社新書)。
この「土偶形容器」は、熊谷に居住した弥生人の様子が具体的にうかがえ、当地域の様相を研究・検討するうえで重要な資料となるものと思われます。
本資料は、平成26年9月29日(月)から、平成27年3月31日(火)まで、熊谷市立江南文化財センター(熊谷市千代329:048-536-5062:土曜日、日曜日、祝日、年末年始休館)展示室にて速報展示いたしますので、ぜひご覧ください。
礫床木棺墓模式図 [弥生時代]
管玉の穿孔2 [弥生時代]
前中西遺跡第1号礫床木棺墓No,8の緑色凝灰岩製管玉の実態顕微鏡写真です。
見た目の観察では丸く見える管玉も、実態顕微鏡で見ると角がある場合があります。本資料の場合は、八角形状に角が認められます。これは、「施溝分割」と呼ばれる分割方法で四角柱状に原石を分割し、その後砥石で研いで丸くしているためで、四角形の角を研いで八角形にし、さらに丸くするために研いだのですが、見た目では角が無くなったので完成としたものと思われます。よく見ると、管玉の表面に斜めに擦った痕跡が認められます。
小口面の写真は、↓です。片面の穿孔径が大きく、
片面の径が小さいことが観察できます。
これは、回転運動によるブレで、挿入側の径が大きくなったためと推測されます。
小口面にも、よく見ると平行する細かい擦痕が観察され、小口面も研いで整えていることがわかります。
また本日、本ブログの総閲覧者が280,000人を超えました。今後ともよろしくお願いします。
見た目の観察では丸く見える管玉も、実態顕微鏡で見ると角がある場合があります。本資料の場合は、八角形状に角が認められます。これは、「施溝分割」と呼ばれる分割方法で四角柱状に原石を分割し、その後砥石で研いで丸くしているためで、四角形の角を研いで八角形にし、さらに丸くするために研いだのですが、見た目では角が無くなったので完成としたものと思われます。よく見ると、管玉の表面に斜めに擦った痕跡が認められます。
小口面の写真は、↓です。片面の穿孔径が大きく、
片面の径が小さいことが観察できます。
これは、回転運動によるブレで、挿入側の径が大きくなったためと推測されます。
小口面にも、よく見ると平行する細かい擦痕が観察され、小口面も研いで整えていることがわかります。
また本日、本ブログの総閲覧者が280,000人を超えました。今後ともよろしくお願いします。
栗林式土器甕 [弥生時代]
前中西遺跡第10調査区の溝跡から出土した弥生時代中期後葉の甕を紹介します。
2月19日に紹介した、北島式土器の壺と共伴するものです。甕型を呈し、地紋に縄文を施文しています。外反する口縁部には、波状沈線を1条、胴部には重ね「コの字文」を4単位施文しています。コの字文の一番中には垂下する波状沈線を施文しています。また、「コの字文」の単位重複部及び、波状沈線垂下部にはボタン上の貼り付け文を貼付し、4~5つの刺突を加えています。
この土器は、弥生時代中期後葉の長野地域に分布する栗林3式土器に比定されます。このタイプの土器は、胎土が黒色を呈するのが多いのが特徴で、搬入品と推測されます。胎土の黒色は、焼成時に黒色処理を行なったものか、粘土自体に黒色を呈する成分が含まれているのか、意識的に混ぜ物を加えているのかは不明です。焼成後、黒色を呈していることが、この土器の製作に際し重要であったようです。他の弥生土器が、茶褐色を呈する中、小さな破片でも特定できる特徴的な胎土です。
2月19日に紹介した、北島式土器の壺と共伴するものです。甕型を呈し、地紋に縄文を施文しています。外反する口縁部には、波状沈線を1条、胴部には重ね「コの字文」を4単位施文しています。コの字文の一番中には垂下する波状沈線を施文しています。また、「コの字文」の単位重複部及び、波状沈線垂下部にはボタン上の貼り付け文を貼付し、4~5つの刺突を加えています。
この土器は、弥生時代中期後葉の長野地域に分布する栗林3式土器に比定されます。このタイプの土器は、胎土が黒色を呈するのが多いのが特徴で、搬入品と推測されます。胎土の黒色は、焼成時に黒色処理を行なったものか、粘土自体に黒色を呈する成分が含まれているのか、意識的に混ぜ物を加えているのかは不明です。焼成後、黒色を呈していることが、この土器の製作に際し重要であったようです。他の弥生土器が、茶褐色を呈する中、小さな破片でも特定できる特徴的な胎土です。
管玉の穿孔 [弥生時代]
前中西遺跡第3号礫床木棺墓出土のNo,86の緑色凝灰岩製管玉です。片側が欠損しており、現存長15.26mm、径2.54mm、重量0.14gをはかります。
欠損部を観察すると 孔の中に段が観察できます。これは、管玉の穿孔を両側から行なった際の貫通部と思われます。貫通部は、管玉の破損部付近にあり、穿孔が片側から行なわれ、後少しで貫通と言うところで、方向を変えて穿孔を行なった結果の段と判断できます。当初は片方向からの貫通を試みましたが穿孔困難と判断し、穿孔方向を変えたものと思われます。
破損が無ければ観察できなかったもので、「怪我の功名」でした。
ちなみに、弥生時代中期の管玉は穿孔には石針を用い、後期~古墳時代になると鉄針を用いて穿孔しています。石質にもよりますが、長い管玉は両側から、短い管玉は片側から穿孔する傾向が認められます。
欠損部を観察すると 孔の中に段が観察できます。これは、管玉の穿孔を両側から行なった際の貫通部と思われます。貫通部は、管玉の破損部付近にあり、穿孔が片側から行なわれ、後少しで貫通と言うところで、方向を変えて穿孔を行なった結果の段と判断できます。当初は片方向からの貫通を試みましたが穿孔困難と判断し、穿孔方向を変えたものと思われます。
破損が無ければ観察できなかったもので、「怪我の功名」でした。
ちなみに、弥生時代中期の管玉は穿孔には石針を用い、後期~古墳時代になると鉄針を用いて穿孔しています。石質にもよりますが、長い管玉は両側から、短い管玉は片側から穿孔する傾向が認められます。
管玉首飾り [弥生時代]
玉髄 [弥生時代]
玉髄(Chalcedony)は、硬度6.5、比重2.55~2.63の非常に硬い石です。石英の微小結晶が網目状に集まり、極小の小孔を持つ緻密集合体で、結晶鉱物学的には石英です。肉眼観察では、半透明感のある乳白色を呈し、滑らかな光沢があります。この玉髄の中で、含まれる不純物により、赤・褐・褐黄・緑・黒色を呈しているものを碧玉(Jasper)と呼んでいます。
↓は、茨城県北富田採取の玉髄です。
前中西遺跡礫床木棺簿出土の赤玉石製管玉も、実体顕微鏡で見ると、乳白色の石英が列点状に微量含まれていることが観察できます。
玉髄は、旧石器時代の剥片石器、弥生時代から古墳時代の石針、管玉、勾玉等に用いられています。
↓は、茨城県北富田採取の玉髄です。
前中西遺跡礫床木棺簿出土の赤玉石製管玉も、実体顕微鏡で見ると、乳白色の石英が列点状に微量含まれていることが観察できます。
玉髄は、旧石器時代の剥片石器、弥生時代から古墳時代の石針、管玉、勾玉等に用いられています。