石仏熟覧4 「王子塚石仏」のはなし 3 ―王子とは誰のこと― [その他]
王子塚石仏が造られたと考える平安時代末から中世初頭は、武士の台頭する時期でもあり、当地域に勢力を持っていた斎藤氏の関与があったかもしれません。斎藤氏は大我井の森に経塚を造っています。昭和30年代に妻沼小学校(かつての大我井の森一角)の工事に際し発見された経筒に記された「久安」の文字が年号を示すものとすると1145~1151年の間に造られたと考えられます。これは王子塚石仏の建立時期とはあまり離れてはいないと思われます。平沢寺出土経筒(嵐山町)も久安4年(1148)の年号と共に「如法経(法華経)」を収めたとの銘文があります。畠山重忠の曾祖父重綱の世代に納められたとされるこの経筒から武士たちの信仰が窺われます。源頼朝の祈願寺の一つであった慈光寺(ときがわ町)にも日本三大装飾経として国宝指定されている「法華経」が納められたことも頼朝の観音信仰の表れと考えられています。
写真 平沢寺出土経筒 | 写真 大我井経塚出土経筒 |
王子塚石仏は大きな「笠塔婆」だった可能性があり、石仏を祀る聖域表示として塚を築いたと考えるのですが、王子は何に由来するのでしょうか。
風化により像容が不明だったことから最近まで「十一面観音」ではなく「馬頭観音」との祭祀が続けられていたようです。王子は牛頭天皇の八人の王子たちを指すこともありますが、員数や像容は異なり石仏の主尊が名称の元ではなさそうです。
王子が神仏ではなく、天皇家や貴族の血筋を引く皇子(親王)や姫(内親王)たちが政争や戦乱などの理由で地方への逃避や移動をするという「貴種流離」の伝説があります。月山を開いた蜂須皇子(崇峻天皇の皇子)や、木地師の祖となったとされる惟喬親王(文徳天皇の皇子)、在原業平の東國下向の伝説、更級日記では「竹芝伝説」が記されるなど広く民間に物語られていたようです。
註 「竹芝伝説」 「更級日記」作者は菅原孝標娘(名は伝わっていない)上総国(千葉県)の国府(市原市)に赴任した父に伴い幼少期を上総で過ごし、帰京の際の出来事を後年まとめた日記風の紀行文。少女の感性のまま見聞きしたことがしるされ、当時の東国の様子を知る上でも貴重な記録となっている。「竹芝伝説」の概要は東国からの帰国の道中で地元の民から聞いた話となっている。ちょっとした憧れが感じられる文章と思われる。
―東国から皇居の警備に派遣された衛士(皇居の警備などをするため地方から派遣された男子)が故郷を懐かしみ嘆いていたところ、たまたまこれを聞き興味を持った天皇の姫(内親王)が自身を故郷の竹芝に連れていくように命令し衛士と共に武蔵へ下った。天皇は追手を差し向け姫を取り戻そうとしたが、姫は武蔵にとどまる意志を固めていたため、竹芝に住み衛士と夫婦になった。天皇は姫と衛士に武蔵国を任せ生まれた子に武蔵を名乗ることを許したという。姫の没後は住まいに竹芝寺を建てていたが、当時は礎石の跡とこの伝説が残るだけだったという。―
なお、武蔵竹芝は足立郡司家のことで伝説の場所は埼玉県さいたま市大宮区に所在する氷川神社付近とされています。また、菅原孝標の娘がこれを聞いたのは東京都港区三田付近ともされています。