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整理調査の現場から     古代の技術、現代の技術 [その他]

 今私の目前におよそ1万年の時を超えて名の伝わらない誰かの「旧石器人」が造った黒曜石製の石槍があります。整った木の葉形をしたており、ガラス質の石を薄くはぎ取った痕跡が明瞭です。旧石器人のだれもが石器を造れたかはわかりませんが、利器としての石器造の技術は、手わざの粋として縄文時代の石鏃造へと受け継がれていきます。それも弥生時代には金属器の刃物に替わり、現在ではより科学的な技術を駆使して様々な加工が可能になっています。ある意味技術の進歩であり、ある意味技術の退化でもあるようです。 image001s.jpg
 私は実測図を作成するとき、いまだに鉛筆を使います。使い慣れたトンボのmono2H、三菱のユニ2Hが頼りです。最も老眼が進んでいるため、0.3芯のシャープペンも助っ人にいます。その他、デイバイダー お手製の真弧などが相棒といったところです。
 極め付けの測線が引けなくなるとひとしきり鉛筆を削って休息と精神統一を致します。自我没入のときです。ふと、作業中の同僚やサポーターのお姉さんたちを見渡すと、そろいも揃って皆三菱ユニのシャープペンシルをご使用中。これかと気づきました。技術の革新あるいは緩やかな変化は旧石器人から縄文人そして弥生人も経験したこと、そして私も前時代人(昭和の人です)の中入りなんだと。  でもね、いいことばかりではないと思いますよ、刃物を使って物を切る削る加工する技術は手わざの、人間の基本的な生活技術でないかい。キイボタンを押すだけでは脳細胞の刺激にならないのでは、下町ロケットを見たかとまでは云いません。 image002s.jpg
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 一度だけお酒をご一緒させていただいた佐原 真(1932~2002)氏(当時、ほんの駆け出しだった私にとって、佐原氏は考古学の神様のよう方でした)は1980年の随想にこんなことを書いていました。

 『鉛筆をさしこめば電力が鋭らせてくれる。こうして人は鉛筆を削る技術を失ってしまった。自動車の普及は足の力を弱め、テレビへの熱中は家族同士の語らいの座を奪って親子間の心の交流を減じ、そして電卓は人間の計算能力を、脳の働きを確実に侵犯しつつある。技術・道具・機械の際限のない発達、それは人間の将来を脅かしているのだ。』

 40年たって、少子高齢化、当たり前のスマホなど、自然、社会の環境変化、人間の五感の変化、退化など覆い隠せるものではないだろう。考える技術は失ってはならないものだと思う。結びに佐原氏はこう書いていました。

 『古い技術・道具を棄てさる因襲こそ棄てさって、それを再開発して身につけることこそ、人類が万物の霊長として地球に君臨しつづける必須条件であるまいか。』

佐原 真1980「技術・道具随想」『歴史公論5 ―古代日本人の生活―』
佐原 真2005『佐原真の仕事』全5巻 岩波書店
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