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石仏熟覧1  交通安全の元祖か「人馬安全」 [その他]

 熊谷の水車に関して、少し紹介したところですが、平戸の超願寺境内に江戸時代の末に立てられた馬頭観音塔があります。平戸村近辺の水車営業者と運輸業者が交通の安全を祈願して建てたもので、元は星川沿いの路傍から移されたようです。
 碑面には次のような銘文が刻まれています。
 ・塔身 (正面) 「馬頭観世音」 (左面) 「安政二年(1855)龍集乙卯冬十月吉日之建」
 ・台石 (正面) 「人馬安全」 (右面) 「近郷扶佐馬持講中」
     (左面) 「扶助 熊谷駅 隣村水車 同馬喰中」 
     (背面) 「当所講中世話人」
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 馬は農耕・交通・運輸の手段としてまた担い手として重要な存在でしたから、この仏塔は刻まれた文字に見るように「馬頭観音菩薩」に直截に「人と馬との安全」を祈願しています。熊谷駅は中山道の伝馬の役割を云うもので宿と駅が一体となって人馬の宿泊と荷駄の輸送を管理する制度でした。宿場の伝馬が不足した場合に近郷の村々へ応援を要請することを助郷といい、村々にとっては多大の負担を強いられる制度でした。
 「熊谷駅馬喰中」は伝馬に従事した人馬のこと、「近郷扶佐講中」は助郷の人馬のことでしょう。輸送中の事故や病気などから馬の無事を願うことは、普段から馬と共に生活する馬方や農家の人たちで、地元の世話人もその思いを理解していたと思われます。面白いのは「隣村水車」が馬喰中と同等に記されていることです。この隣村水車は平戸村か戸出村かのいずれかに該当すると思われます。なぜ水車経営者が一緒になって馬頭観音を祀ったかは、精米・精麦・製粉のため水車へ穀類を運ぶことが馬車であれ荷駄(馬の背に載せる場合)であれ日常的にあったからと思われます。かつて星川あるいは成田堰用水路に水車があったことを示す貴重な記録です。(新井)
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