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石仏熟覧3 「王子塚石仏」のはなし 2  ―石棺仏とは― [その他]

 王子塚は古墳跡と考えられていたため、石仏は横穴式石室の石材だったのではないかと推測されたこともありました。発掘調査により詳細が判明していますが、王子塚石仏が当初古墳石材に使用されたとしたらその大きさから古墳玄室の奥壁か壁・天井などの部材だったと思われます。しかし、後に石材が取り払われたとしても発掘調査では据付の痕跡や同質の石材片や、使用頻度の多い角閃石安山岩や石室床に敷く河原石なども見当たらず、調査の結果からは古墳の痕跡は不明で、時代や内容を知る手がかりとなる出土遺物も得られないため、古墳と考えることは難しい状況です。古墳ではなく石仏を祀るために塚を築いたと考えられるでしょう。
 一時「王子塚石仏」が「石棺仏」と呼ばれたことは単に古墳に使用された石材だろうとの連想からきたもので全く根拠がなく、石棺仏の類例にも当てはまりません。本来「石棺仏」は古墳時代の石棺を転用して造られた石仏をいい、中世以降に造られた例が多いようです。古墳時代の石棺は東日本では群馬県に20数例知られていますが、主に造られたのは近畿地方を中心とする西日本で、石棺仏も近畿地方に多数造られています。
 古代末から中世期には開発が進み古墳を暴くなどした際に出土した石棺が石材として様々に利用されました。鎌倉時代初頭、兵火に焼け落ちた東大寺の再建に尽力した重源は大阪府の狭山池の改修も行っていますが、そこには古墳時代の石棺が樋管や樋門の擁壁として20個以上も使われていました。石棺仏とは異なる転用例ですが古墳の開墾が多かったことが窺えます(参照 大阪府立狭山池博物館)。
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図 古墳時代に使われた棺―木棺・石棺・陶棺・漆棺
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写真 狭山池の中樋に使われた石棺 、配置図
 石棺は前期古墳から終末期の古墳まで蓋と身の二部品を組み合わせ、棺蓋の形状から長持形、家形、割竹、舟形などに分けられ、棺身は刳り貫き式や組合せ式があります。大型古墳に葬られるような有力な首長の棺として利用されたようです。石棺は基本的に長方形で、弧状の屋根や入母屋風の屋根の形を蓋に表し、縄掛状の突起や内刳などの加工痕がみられることから石棺と判断されますが、王子塚石仏にはそのような痕跡はありません。ほぼ方形の石材を方形に彫り窪めることで生じた額状部が深い彫り込みになることから棺身をイメージされたものと思います。
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王子塚石仏
 屋根、身下半、台石を欠失しているから如寳寺笠塔婆に近似した大きさをしている。
写真 如寳寺笠塔婆
 当初の形は龕状の主尊部に別材で屋根が載せられ、主尊の下部には銘文の刻まれた身部が続いたと思われ、総高は2mを超える「笠塔婆」と呼ぶ大型の仏塔であった可能性があります。ほぼ完存の笠塔婆では福島県郡山市に所在する「如寳寺笠塔婆」が知られています(写真)。如寳寺例は縦長の厚板石を使い正面を彫り窪めて蓮座上に定印を組む阿弥陀坐像を肉彫りし、下部には「承元二年(1202)」の年号を刻んでいます。製作時代も王子塚石仏と同時代とおもわれます。なお、阿弥陀如来ではなく観音を主尊とした仏塔は、現世利益を得ようとする造立者の独自の信仰によるものされ、その担い手は実力を蓄えてきた武士たちと考えられています。王子塚石仏の場合斎藤氏が有力です。(文―新井)
参考 宮下忠吉 1980『石棺仏』木耳社
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