SSブログ
奈良平安時代 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

出土瓦に残る模様4「指紋―その3」 [奈良平安時代]

 生産工程上、指紋の付着時期は成形台からの移動時で、乾燥工程や窯詰工程での確認時に最終工程として、削り落とすなどの調整を省いていると考えられます。指紋が残る瓦の状態は、生産現場での時間的余裕のない状況を反映しているのでしょうか。
 別案として、指紋瓦の遺存率が国分寺では低く、寺内廃寺で高いということになると、出荷瓦の選別を経ていることになり、指紋瓦は余剰瓦として一時保管され、他所へ供給されたとも想定されます。ただ、現在の研究上の理解では同笵・同種瓦の移動は、経済上の理解ではなく、政治上の理解で解釈されており、寺内廃寺の場合も武蔵国分寺と同笵・同種瓦が多数出土するという背景には武蔵国や男衾郡の政治組織に近い、郡の寺(官の寺)、定額寺(官の寺に準じた寺格を持つ寺)などの時期があったと考えています。
 写真 指紋瓦のいろいろ 5点
出土瓦に残る模様4.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

出土瓦に残る模様3「指紋―その2」 [奈良平安時代]

 前回、寺内廃寺出土瓦に残る「指紋」を紹介した中で、遺存数は少ないかなとしましたが、続々と登場している状況になっています。途中経過で6点見つけました。
 窯跡や寺院跡の発掘報告書では瓦の指紋まで観察報告のある例は少ないようなので、実際に指紋が残る例はもっと多数になるのではないかと考えます。遺跡間での指紋照合の研究が進めば、埴輪研究でなされたような工人の窯場間の移動など確認されることも可能になるのでしょう。
出土瓦に残る模様3.jpg
 また、最近の論文では東大寺付属の「正倉院」に使用された瓦に掌紋や指文が良好に残っていることが報告されています。正倉院の場合も同時代としては旧手法での製作とされ、旧手法に手慣れた老工人が動員されたのではないかと特別な事情も想定されます。
 岩永省三2016「正倉院正倉の奈良時代瓦をめぐる諸問題」『正倉院紀要』第38号
nice!(1)  コメント(0) 

出土瓦に残る模様2「並行叩き」 [奈良平安時代]

 この瓦は、柴・板井に所在する寺内廃寺から出土したものです。この瓦の製作方法は、布を敷いた台の上に未成型の瓦を置き、工具で成型し、乾燥の後、窯で焼成して完成させます。瓦の成形時に粘土中の気泡を出したり、厚さを均一にするため、羽子板のような形をした「叩き具」と呼ぶ工具で、叩き締めます。この瓦の場合叩き締めの跡を擦り消さず残しているので、細かい畝状の線となって模様のように残ります。工具痕の一種ですが、他の工具と区分して「並行叩き」と呼んでいます(写真1)。良く似た資料が鳩山町の「金沢瓦窯跡」から出土しています。指紋も残っていました(写真2)。
05.09_1_1.jpg
写真1「並行叩き」の瓦破片
05.09_1_2.jpg
写真2
この「並行叩き」は同時代までの須恵器大甕などに共通してみられる工具痕です(写真3)。また、寺内廃寺の出土瓦全体での占める割合は少数になります。造られ使用された時期は、8世紀中ごろから後半に係る頃と考えています。この頃は武蔵国分寺だけでなく日本全国で国分寺の瓦を焼くため大規模に経営された生産跡が「窯業遺跡」として確認されています。武蔵国では末野(寄居町)、南比企(鳩山町・ときがわ町・嵐山町)、東金子(入間市)、南多摩(稲城市~八王子市)を中心として多数の窯が残されています。瓦工人の指導のもと、容器を造る須恵器工人まで瓦造りに動員されたのではないかと考えています。
 なお、武蔵国分寺の整備は遅々として進まず、たびたび督促の指示が出され、天平13年(741)の国分寺建立の詔勅後、約20年を経た756~765年頃に完成した考えられています。

05.09_1_3.jpg
写真3 「並行叩き」の残る寺内廃寺出土須恵器大甕破片


nice!(0)  コメント(0) 

出土瓦に残る「指紋」 [奈良平安時代]

 この瓦は、柴・板井に所在する寺内廃寺から出土したものです。何千何万に及ぶ瓦礫の中から見つかりました。この瓦は奈良時代の末ころ鳩山町を中心とした南比企丘陵に展開した窯業遺跡として名高い「南比企窯跡群」で造られました。瓦を製作した工人の指紋と思われ、生瓦の状態で瓦の端を持った時に遺された指の指紋3個がわかります。おそらく左手と思われ、写真1から見ると左側から薬指、中指、人差し指のようです。末節から中節の渦状部分や畝状部分がきれいにプリントされています。当時の瓦に指紋が残ることはあまりなく、製作時には残らないように注意していたと想像されるので、ここまではっきり指紋が残る例は珍しいと思われます。考古資料に残る指紋について研究した考古学者によると、埴輪に最も多く残り窯場での工人の移動などが想定されるそうです。
 なお、指紋研究のきっかけとなったのは大森貝塚を発掘したE・S・モースが縄文土器に古代人の指紋が残っていることに気づき、これに興味を抱いたイギリス人宣教師フォールズが研究を進め、犯罪捜査にまで活用される基礎をつくったとされます。
  参考 杉山晋作 1998「考古資料による指紋の基礎的研究」
image001s.jpg[写真1]

image003s.jpg
[写真2]平瓦の隅部破片「寺内廃寺金堂跡出土」
nice!(0)  コメント(1) 

「ちよう、はたり」 [奈良平安時代]

熊谷市の百貨店で開催されていた熊谷市美術家協会会員展の書の部にて、染織家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)・志村ふくみさんの随筆集『ちよう、はたり』から引用された書が展示されていました。熊谷市出身の書家・高橋香韻さんによる作品です。「ちよう、はたり」とは、著者の母が師と仰いだ青田五良の機の音で、柳宗悦の民芸運動に従い、薄暗い土間で一心不乱に織っていた青年の機音が、著者の耳底に甦るという内容から始まります。その中に所収されている奈良への思いについて語った一節が揮毫されています。あおによし奈良に向けての趣意が込められており、奈良の風景が思い浮かぶようです。


chou.png
高橋香韻「ちよう、はたり より」

奈良へいくといつも思う
日本の角に飛鳥
白鳳 天平が
生きていると

遠く古代から消えていった
東大寺の鴟尾
春日の森を逍遥する
鹿の瞳に宿っている




著者紹介:志村 ふくみ
1924年滋賀県近江八幡生まれ。55年、植物染料による染織を始める。57年、第四回日本伝統工芸展に初出品で入選。第五回展から第八回展まで、紬織着物により特選を受賞。83年『一色一生』(求龍堂)により大佛次郎賞受賞。86年、紫綬褒章受章。90年、紬織の優れた染織技術により国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。93年、文化功労者。




nice!(0)  コメント(0) 

古今和歌集から伊勢物語への結び [奈良平安時代]

shokad.png
高橋香韻「伊勢物語 渚の院」(中央)



先日まで開催されていた熊谷市美術展で興味深い作品が展示されていました。
高橋香韻「伊勢物語 渚の院」。平安時代の文学『古今和歌集』に含まれている在原業平の歌と、『伊勢物語』の歌を対として表現した書です。次のような内容で、春を愛でる、春を思う情景が目に浮かびます。


「世の中に
たえてさくらのなかりせば
春の心地はのどけからまし」
(『古今和歌集』在原業平)


「散ればこそ
いとど桜はめでたけれ
浮世に何か久しかるべき」
(『伊勢物語』よみ人知らず)


一つの作品と他の作品とを呼応させる表現は、文学史上の様々な場面で目にすることができます。
その作品の中に通じ合う部分などを「間テクスト性」と呼びます。書かれたものである「テクスト」と新たなる表現によって生み出された「テクスト」をつなぎ合わせ、一つの作品として昇華させる。古代から引き継がれてきた日本の美の在り方を示しているようにも思います。桜が咲く前と後の心理の移ろい。古代から描かれてきた日本人共通の美意識が込められているのではないでしょうか。





nice!(0)  コメント(0) 

西別府廃寺 確認調査 [奈良平安時代]

 平成29年度も終盤ですが、熊谷市教育委員会では現在、西別府廃寺の確認調査を実施しています。
 確認調査ということで、まだ存在が不明確な寺院建物の配置を確認することを目的に、数箇所のトレンチを設定し、掘り進めております。
 今回は、掘り下げても後世の攪乱ばかりで、満足のいく発見がありませんでした。しかし、先日、トレンチの一部で写真(トレンチ左隅)のとおり、人工的に版築をおこなったと疑われる土層断面を確認しました。版築は強固な基礎を設ける目的で、土を付き固める、土を重ねるを交互に繰り返していく方法で、これがあることは、寺院では建物の基壇部の存在が疑われます。

DSC_1933_R.JPG
壁面に版築痕(※拡大するとわかりやすいです)

 今回に先立つ1992年にはこのトレンチの直ぐ南側でやはり版築の痕跡が確認されています。
今回の断面と、1992年の痕跡は同一建物の版築の可能性が高いことから、貴重な発見となりました。
 なお、この付近では現在も畑などから古代瓦が散乱し、地表で確認できます。
DSC_1939_R.JPG
石に混じって古代瓦(三重弧文軒平瓦や丸瓦、平瓦片)が確認できる
nice!(0)  コメント(0) 

鉄の記憶 [奈良平安時代]


新年明けましておめでとうございます。
本年も熊谷市立江南文化財センターのブログ「熊谷市文化財日記」を宜しくお願いいたします。


CIMG3947s.jpg

 板井・柴地域に所在した寺内廃寺からは、建築材に使われた鉄釘が他種多量に発見されました。その中の一本の釘を紹介します。大きな釘で断面四角、約24cmの長さを持っています。和釘の大型品で、古代建築物では構造材を留め置くために使われたと考えられています。柱同士を横につなぐため渡された構造材を貫板と呼び、柱の頭部付近に位置させたことからを頭貫とも呼ばれます。この頭貫か、あるいは外側から打ち付け同様の機能を持たせた長押に使用されたとも考えられます。他に鴟尾、鬼面などの装飾瓦に使用した可能性もあるでしょう。ちなみに、このような大型の釘は犬釘とも呼ばれますが、これは鉄道線路を固定した大型の釘の頭部が耳の垂れた犬の頭部の形に似ていたことから「dog spike」を直訳したものとされます。
CIMG3950s.jpg
釘の写真 寺内廃寺の大型釘(犬釘)【上】と現在の鉄道用犬釘【下】
nice!(0)  コメント(0) 

赤の記憶 [奈良平安時代]

 太陽の赤、赤いバラ、赤子のイメージは古代人ならずとも「赤」は生命そのものを表わすと思わずにはいられません。同時に高貴な色、除魔、僻邪の神秘な色彩として今なお広く、様々の器物や儀式やの場で赤と出会います。 では、遺跡や遺物に出会う赤にはどんなものがあるでしょうか。その一例を紹介します。 写真は、西別府廃寺から出土した瓦で軒先を飾る用途から「軒平瓦」と呼び、文様のある面の「瓦当面」には中央から左右対象に抽象化された唐草文様が描かれています。奈良時代の都、万葉歌に「あおによし(青丹良し)」と謡われた平城京の寺院や官舎の軒先を飾った瓦と同種の文様瓦です。この瓦の下面に赤い彩色がわずかに残っています。この赤い彩色は酸化鉄を元に作られたベンガラという塗料で「丹」とも呼ばれた赤色のことです。寺院建築では建物の柱や屋根を支える垂木から軒先を塗ることに使われています。西別府廃寺出土の瓦にこの色彩が残ることは、都の寺々と同様に彩色された、高貴な建築物であったことを示しています。
image007s1.jpg
瓦に残る赤彩 西別府廃寺出土 下写真の拡大

image009s2.jpg
西別府廃寺出土の唐草文のある軒平瓦
nice!(0)  コメント(0) 

「幡羅官衙遺跡群」が国の史跡に指定されます。 [奈良平安時代]


 国の文化審議会(会長:馬淵明子)は、平成29 年11 月17 日(金)に開催される同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、深谷市・熊谷市に所在する「幡羅官衙遺跡群」(はらかんがいせきぐん)を国指定史跡に指定するよう文部科学大臣に答申する予定です。この結果、同遺跡群は官報告示の後に、国指定史跡に指定される予定です。これにより、国指定史跡の総数は1,805 件となります。また、埼玉県における国指定史跡は、20 件になり、熊谷市では宮塚古墳に次ぎ2件目、61年ぶりの国史跡指定となります。

1 幡羅官衙遺跡群について
(1)構成深谷市幡羅官衙遺跡・熊谷市西別府祭祀遺跡
(2)所在の場所深谷市東方字森吉他・熊谷市西別府字西方他
(3)指定面積102,110.98 ㎡(深谷市幡羅官衙遺跡94,949.60 ㎡)(熊谷市西別府祭祀遺跡7,161.38 ㎡)

2 幡羅官衙遺跡群の特徴
(1)幡羅官衙遺跡の概要
古代幡羅郡家及び祭祀場等からなる官衙遺跡群です。正倉をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、祭祀場などの郡家を構成する諸施設が検出され、郡家の全体像が把握できるとともに、7世紀後半の成立から11世紀前半の廃絶までの300年以上の過程が確認できる稀有な遺跡であり、地方官衙の構成や立地を知る上でも大変重要です。

幡羅官衙.jpg
幡羅官衙遺跡群(畑が幡羅官衙遺跡、右奥の森周辺が西別府祭祀遺跡):深谷市教育委員会提供


※「幡羅郡」とは
古代の武蔵国を構成する郡の一つで、現深谷市・熊谷市にまたがって所在していました。

※「郡家」(ぐうけ)とは
古代の郡役所です。「郡衙」とも呼ばれますが、古文書に「郡家」という名称が認められることから、近年は郡家の使用が主流となっています。

※「正倉」とは
税として納められた稲などを収納保管した公的な倉庫。数棟が整然と並ぶことが多く正倉が所在する敷地全体を「正倉院」と呼びます。

(2)幡羅官衙遺跡群の特徴
 埼玉県北部の櫛引台地北縁部に位置します。深谷市にある幡羅官衙遺跡と熊谷市にある西別府祭祀遺跡からなる官衙遺跡群で、古代においてはいずれも武蔵国幡羅郡に属します。深谷市幡羅官衙遺跡は平成13年度に郡家正倉とみられる遺構が発見されたことを契機に把握され、深谷市教育委員会による35次におよぶ発掘調査が行われました。郡庁は未発見ですが、正倉院をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、道路など郡家を構成するとみられる諸施設が検出されました。
 熊谷市西別府祭祀遺跡は幡羅官衙遺跡に東接し、台地縁辺部とその崖下の湧水に広がる遺跡です。昭和38年度に石製模造品が偶然発見されたことが端緒となり、所在が判明した遺跡です。熊谷市教育委員会による発掘調査により、7世紀後半から11世紀にかけて、湧水箇所における石製模造品を主体とした祭祀が、土器を用いた祭祀へと変化していく過程が判明しました。両遺跡は、遺跡の内容、存続時期や位置関係等からみて、幡羅郡家とこれに付随する祭祀場であることが判明しました。

西別府.jpg
幡羅官衙遺跡群(西別府祭祀遺跡)

※「石製模造品」とは
軟質な石を材料として各種の器物(勾玉、剣など)の形を真似て作った祭祀具。

(3)幡羅官衙遺跡群の評価
両遺跡の長年の発掘調査により、郡家を構成する諸施設が良好な状態でまとまって検出さ
れました。郡家の全体像が把握できるとともに、郡家とそれに付随する祭祀場の成立から廃
絶に至るまでの過程が確認できる稀有な遺跡です。地方官衙の構造や立地を知る上でも大変
重要な遺跡です。

■参考情報
1 <史跡とは>
史跡とは、貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で、我が国にとって歴史上又は学術上価値の高いもののうち、重要なものについて、文部科学大臣が指定したものです。(文化財保護法第2 条、第109 条)



nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 奈良平安時代 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。