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寺内廃寺の塑像 ―3 [奈良平安時代]

 3本爪の足を持つ仏像、それは天部に押さえつけられた邪鬼の足でしょうか。右足が良く残っていましたが、爪と思われる破片が他にもありました。邪鬼と共にあるのは多聞天、持国天、増長天、広目天、の四天王あるいは十二神将の存在が想定されます。他の破片から絞り込めるといいのですが。ただ、邪鬼の大きさからすると天部像の大きさは等身大に近いように思います。
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寺内廃寺の塑像 -2 [奈良平安時代]

 塑像片の一部に鼻の破片があることに気づいていましたが、接合する2片がありました。意外と大振りで、鼻筋の通った形をしています。裏面には組木の痕跡があります。大きさから丈六仏の可能性があると考えています。鼻孔を彫り込んだ窪みもよくわかります。高さ3.8cm、幅4.9cmを測ります。
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正面 右側面
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裏面 接合面 下面


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寺内廃寺の塑像 ―1 [奈良平安時代]

 寺内廃寺の金堂跡からは螺髪が30数点出土しています。金堂が炎上したものの、土の仏はその一部をとどめていたのです。螺髪はその形態から数種類に分けられ、ポットケーキ状又はサイロ状の螺髪が最多の出土であることから、本尊級の仏像のものと思われます。大きさは、高さ約2cm 底部の直径1.5cmです。この螺髪は大きさと形が揃っていることから型造りと思われます。
 寺内廃寺の出土塑像の中では仏顔部と思われる破片は数点しか確認できません。細片が主体であることや明瞭な体部や顔面部が少ないことから、火災後に取り片づけられているのではないかとも想像されます。
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古代の熊谷を学ぶ―奈良地区の古墳群と幡羅官衙遺跡群― [奈良平安時代]


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 熊谷市立奈良中学校で1学年を対象に古代の熊谷を学ぶ講座を実施しました。講師を務めたのは奈良中学校の卒業生であり「ようこそ先輩」の講座として開催されました。奈良地区にある奈良古墳群や横塚山古墳、先般に国指定史跡になった幡羅官衙遺跡群について解説するとともに、奈良地区の「奈良」の語源や言われなどを踏まえて、地域の歴史を紹介する内容となりました。受講した生徒は「奈良や地域の歴史を学ぶことができ、さらに調べてみたいと思った」という感想を話していました。



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国史跡指定記念「幡羅官衙遺跡群」特別展のテレビ取材 [奈良平安時代]

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撮影取材の様子

江南文化財センター及び別府公民館にて
国史跡指定記念「幡羅官衙遺跡群」特別展が開催されています。
その特別展にJ:COM熊谷・深谷の取材がありました。
担当職員による解説もありました。
同局の8月2日のデイリーニュースにて放送されます。

放送が
◆放送エリア J:COM熊谷・深谷 のサービスエリア
◆放送日時   
【生放送】8月2日(木) 17:00~17:15
【再放送】8月2日(木) 20:30~20:45、 23:00~23:15
◆放送チャンネル  地デジ11ch 
加えて、「ど・ろーかる」アプリを利用し、全国からスマートフォンからの視聴も可能です。
放映後1週間の視聴が可能です。



特別展開催概要
第1会場  熊谷市立江南文化財センター
  会期  平成30年7月23日(月)~12月28日(金)
  URL http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/
第2会場  熊谷市立別府公民館
  会場  平成30年7月30日(月)~12月28日(金)
  URL http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/kyoiku/tiikikouminkan/beppu.html



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出土瓦から ―繕いの痕― [奈良平安時代]

 瓦は何千、何万を必要とするので、道具類の消耗や補給は日常的と思われ、敷布も破れ使用不能になる場合も想定されます。瓦工房では布が不足してすぐに交換できなければ、当座は繕い修理をして使い続けることになります。そのような事情を物語る布目瓦が実際に製作されたことは生産地である瓦窯跡でも確認されています。納入先の遺跡である「寺内廃寺」からも見つかっています。
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写真1では粗目の布と中目の布をつづり合わせています。

写真2では綴り合せた糸目の末が見えています。
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写真3 「かぎ裂き」か「ほころび」に方形の別布で「継あて」した痕が見えます。
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 寺内廃寺例のような布目瓦が他の寺院跡か瓦窯跡かあるいは他の場所で確認されることで、埋もれた歴史が掘り起こされることになるでしょう。平瓦は女瓦とも言いますから瓦姉妹の再会というべきでしょうか。

写真4 布継の残る平瓦 左下隅に指紋も残っていました。
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出土瓦から ―古代の布― [奈良平安時代]

 寺内廃寺が建てられた男衾郡から税金として納められた「調布」の現物が東大寺正倉院に収められています。一反の布の隅には貢納者の氏名が次のように書かれています。『武蔵国男衾郡□(犭編に烏)倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端 天平六年十一月』この布は西暦734年に笠原里の想定地埼玉県比企郡小川町に住む飛鳥部虫麻呂の名で武蔵国府から調の税として平城の都に送られたものです。「調布」とは中位程度の品質とされています。これらは庶民の衣服や生活用具などに主に使われたようです。瓦造りでは「商布(麻)」を使用していることが製作仕様書に当たる「延喜木工寮式」に見えています。平瓦用では1尺5寸(約45㎝)の商布を使い、2000枚の瓦を作れるとしています。
※ 調庸の布は中~下位の品質とされ「調布・庸布、交易布、商布」などに区分されていたようです。。
写真1  敷き布が破れている丸瓦の湾曲内面
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写真2 細目布(1㎝当たり18~20本)と粗目布(1㎝当たり10~15本)の繋いである布目
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※「里」は30戸以上を1単位とした集落のまとまり、「郷」とも表記する。男衾郡は8か所の里(郷)があったとされる。なお、1戸は戸主とその家族を成員とした集団、親の世代と子の兄弟、孫子までを含む血縁の近い親族であったことが遺された戸籍などから知られる。
参考文献 熊谷市史資料編2「古代・中世」
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出土瓦から ―瓦の布目― [奈良平安時代]

 瓦造に際して素材粘土と整形台との密着を防ぎ、できた瓦の分離を容易にするために整形台には布を敷いており、この敷布の痕跡がそのまま残る瓦が古代では普遍的です。中世以降の瓦は布目をあまり遺さないので、古代瓦を「布目瓦」と呼ぶ元となっています。布目は多くの場合、丸瓦・平瓦とも湾曲面の内側(凹面)に遺されています。
 寺内廃寺から出土している瓦の布目は大まかに粗・中・細の種類がみられます。当時の布は絹を除くと大麻、苧麻(カラムシ)、木綿(ゆう―コウゾ・クワなどの繊維)などが原料で、縦糸と緯糸を交互に交差させる「平織」の布になっています。瓦造りに使われた布と同種の「調布」、「庸布」が東大寺正倉院の宝物として残されています。調布は現物税として納める布、庸布は労役の代納として納める布で、衣服や装飾品の下地など様々な器物に使われています。
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写真1 布目の細な瓦 1㎝当たり18~20本

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写真2 布目の粗い瓦  1㎝当たり14~16本

奈良時代の平均的な平織布の糸目は1cm当たり経糸9.4×緯糸7.6本程度のようです(文献1)。もっとも細密な「調細布」の例では、1㎝当たり経16~20本、緯12~14本程です。
 
文献1 布目順郎 1992「目で見る繊維の考古学―繊維遺物資料集成」染色と生活社
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発掘された日本列島 ―新発見考古速報展―2018 に行ってきました。 [奈良平安時代]

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 過日、猛暑の中、江戸両国へ「江戸東京博物館」へ標記の観覧に行ってきました。学習見学の小学生と海外からの観光客のにぎわう展示場の一角に全国からの精鋭遺物が並んでいました。内陸部ではほとんど掘る機会のない貝塚貝層の剥ぎ取り標本は圧巻でしたが、いずれ劣らぬといったところです。
 最近、埼玉からの出場が少ないので少々侘しさも感じていましたが、ですが気が付きました。古代⑪ 史跡 武蔵国分寺附東山道武蔵道跡 の展示物の中に瓦が展示されており、「郡名瓦(男瓦)」「幡羅郡」とあり、「幡」の刻字が記されていました。埼玉県県人(賢人)としては心憎い展示に感心した次第です。幡羅郡は埼玉県の北部、熊谷市・深谷市に所在する国指定史跡に本年指定された『幡羅官衙遺跡群』の所在地です。
 見るべきものが館内他の展示を含めて多々あります。ぜひ足をお運びください。江戸東京博物館での開催は7月22日までになります。
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※ 郡名瓦には「中」の刻印―「那珂郡」もありました。本庄市の周辺地位と考えられています。
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出土瓦に残る文字1「郡名瓦―その1」 [奈良平安時代]

 寺内廃寺出土の軒丸瓦は「素弁八葉蓮華文」で、ときがわ町「亀の原瓦窯跡」(県指定史跡)で生産され、武蔵国分寺七重塔に使用されていることがわかっています。
写真1 亀の原瓦窯跡から出土した軒丸瓦
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 現在。江南文化財センターでは「冑山 根岸家」コレクションによる「武蔵国分寺の郡名瓦」ミニ展を開催しています。この展示の中には那珂郡を示す「中」刻印瓦と豊島郡を示す「豊」刻印瓦を展示していますが、この刻印瓦と同印の刻印瓦が寺内廃寺からも出土しています。また、ヘラ書文字では「大里郡」が確認されています。他にもヘラ書文字の瓦が多数確認されており、「大」「山」「父」「御」「中」などは郡郷名の一部と想定されます。
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 本来、武蔵国分寺への献納が予定されていた瓦が寺内廃寺へ回された背景には、武蔵国・郡の政治組織に付属した寺格を有したか、政治的に卓越した人物の存在を想定しています。
その人物は当時の男衾郡大領(郡司)であった「壬生吉志氏」であると考えられています。
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