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「幡羅官衙遺跡群」が国の史跡に指定されます。 [奈良平安時代]


 国の文化審議会(会長:馬淵明子)は、平成29 年11 月17 日(金)に開催される同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、深谷市・熊谷市に所在する「幡羅官衙遺跡群」(はらかんがいせきぐん)を国指定史跡に指定するよう文部科学大臣に答申する予定です。この結果、同遺跡群は官報告示の後に、国指定史跡に指定される予定です。これにより、国指定史跡の総数は1,805 件となります。また、埼玉県における国指定史跡は、20 件になり、熊谷市では宮塚古墳に次ぎ2件目、61年ぶりの国史跡指定となります。

1 幡羅官衙遺跡群について
(1)構成深谷市幡羅官衙遺跡・熊谷市西別府祭祀遺跡
(2)所在の場所深谷市東方字森吉他・熊谷市西別府字西方他
(3)指定面積102,110.98 ㎡(深谷市幡羅官衙遺跡94,949.60 ㎡)(熊谷市西別府祭祀遺跡7,161.38 ㎡)

2 幡羅官衙遺跡群の特徴
(1)幡羅官衙遺跡の概要
古代幡羅郡家及び祭祀場等からなる官衙遺跡群です。正倉をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、祭祀場などの郡家を構成する諸施設が検出され、郡家の全体像が把握できるとともに、7世紀後半の成立から11世紀前半の廃絶までの300年以上の過程が確認できる稀有な遺跡であり、地方官衙の構成や立地を知る上でも大変重要です。

幡羅官衙.jpg
幡羅官衙遺跡群(畑が幡羅官衙遺跡、右奥の森周辺が西別府祭祀遺跡):深谷市教育委員会提供


※「幡羅郡」とは
古代の武蔵国を構成する郡の一つで、現深谷市・熊谷市にまたがって所在していました。

※「郡家」(ぐうけ)とは
古代の郡役所です。「郡衙」とも呼ばれますが、古文書に「郡家」という名称が認められることから、近年は郡家の使用が主流となっています。

※「正倉」とは
税として納められた稲などを収納保管した公的な倉庫。数棟が整然と並ぶことが多く正倉が所在する敷地全体を「正倉院」と呼びます。

(2)幡羅官衙遺跡群の特徴
 埼玉県北部の櫛引台地北縁部に位置します。深谷市にある幡羅官衙遺跡と熊谷市にある西別府祭祀遺跡からなる官衙遺跡群で、古代においてはいずれも武蔵国幡羅郡に属します。深谷市幡羅官衙遺跡は平成13年度に郡家正倉とみられる遺構が発見されたことを契機に把握され、深谷市教育委員会による35次におよぶ発掘調査が行われました。郡庁は未発見ですが、正倉院をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、道路など郡家を構成するとみられる諸施設が検出されました。
 熊谷市西別府祭祀遺跡は幡羅官衙遺跡に東接し、台地縁辺部とその崖下の湧水に広がる遺跡です。昭和38年度に石製模造品が偶然発見されたことが端緒となり、所在が判明した遺跡です。熊谷市教育委員会による発掘調査により、7世紀後半から11世紀にかけて、湧水箇所における石製模造品を主体とした祭祀が、土器を用いた祭祀へと変化していく過程が判明しました。両遺跡は、遺跡の内容、存続時期や位置関係等からみて、幡羅郡家とこれに付随する祭祀場であることが判明しました。

西別府.jpg
幡羅官衙遺跡群(西別府祭祀遺跡)

※「石製模造品」とは
軟質な石を材料として各種の器物(勾玉、剣など)の形を真似て作った祭祀具。

(3)幡羅官衙遺跡群の評価
両遺跡の長年の発掘調査により、郡家を構成する諸施設が良好な状態でまとまって検出さ
れました。郡家の全体像が把握できるとともに、郡家とそれに付随する祭祀場の成立から廃
絶に至るまでの過程が確認できる稀有な遺跡です。地方官衙の構造や立地を知る上でも大変
重要な遺跡です。

■参考情報
1 <史跡とは>
史跡とは、貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で、我が国にとって歴史上又は学術上価値の高いもののうち、重要なものについて、文部科学大臣が指定したものです。(文化財保護法第2 条、第109 条)



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