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「もの」と「ひと」の旅―11 ―上中条の小王に捧げられた祀り― [紀行]

 上中条地域は米麦の穀倉地帯として知られ、古代から実りの地域であったことはこの地域を治めていたであろう豪族たちの古墳からも想像されます。昭和53年に発掘された「鎧塚古墳」は盛土を削平された前方後円墳でしたが古墳周溝が良く残り、そこから大量の土器と埴輪が出土しました。特に大型の須恵器「器台」は関東では稀な発見で、完全な形に復元され注目を集めました。日本で最初に造られた須恵器の一つだったからです。
 須恵器は行田市稲荷山古墳出土鉄剣に名を刻まれたワカタケル大王(雄略天皇)の時代(5世紀後半)に「百済」から渡来した「新漢陶部高貴」を祖とする陶部の工人たちの伝承があり、大規模な窯業遺跡が経営された大阪府の陶邑古窯跡群(泉北市など)での生産が確認されています(5世紀初頭)。鎧塚古墳出土の須恵器もこれらの窯場から運ばれ、古墳を取り巻く2か所の墓前祭祀場に据え置かれていました。遺物の主体は土器類ですが失われた木器の存在も想定でき、坏碗鉢類など盛り付け及び供膳具使用していることから、一族集まり、被葬者への鎮魂の飲食儀礼を行ったのではないかという祭祀の様子が思い浮かびます。祭祀場が2か所に置かれた理由は男子の集団と女子の集団とに分かれていたのではないかと考えています。
 なお、鎧塚古墳の須恵器をはじめとする祭祀遺物は埼玉県指定文化財となっています。
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 写真1 第1号祭祀場での須恵器器台と土師器坏・高坏等の出土状態
     須恵器器台の周りに高坏や坏が集められていた。

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写真2 鎧塚古墳出土の器台形の須恵器  鉢部は丸みを持ち百済風の形を残している。 装飾として付けられた波状文

参考
熊谷デジタルミュージアム 鎧塚古墳発掘報告書 1981年刊(PDF:17.7MB)
熊谷デジタルミュージアム 埼玉県指定有形文化財 考古資料「鎧塚古墳出土土器一括」のページ

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旅の記憶‐10 幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場 石造物 [紀行]

 新四国霊場の調査はそれが主目的ではなく、市内各所で行われる開発事業と埋蔵文化財の試掘確認作業や工事立会確認などの合間に行っているものです。そのため霊場資料の発見も余り増えてはいません。文化財の現状確認も兼ねていますので急がす確実に進めたいと考えています。
 さて、妻沼八木田 薬師堂は第六十七番札所になっていますが、往時をしのばせる大きな四面堂が建っています。正面見上げの欄間大羽目彫刻は天女などを配し、厚みのある細部まで行き届いた彫刻で、聖天山系の彫師が関わっているように思います。須弥壇彫刻と厨子彫刻も細密な造りと見受けられます。また、格天井の花鳥画などこの薬師堂が造られた頃の威勢を感じ取ることできました。
 巡拝石塔は境内の石造物に紛れて佇んでいました。下部を欠損していますが、空海像と新四国の文字が確認できます。折れているとはいえ貴重な歴史の証人です。自然に手を合わせました。
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写真1 薬師堂の外観 三間四面堂に濡れ縁が取り巻く

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写真2 飾られた内陣の様子、天井画 写真3 幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場の石塔下半が折れており、付近に見当たらなかった。

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「もの」と「ひと」の旅―10 ―中世の銭は輸入品― [紀行]

 日本の貨幣は皇朝十二銭の発行以外、甲州金(戦国大名武田氏の鋳造した金貨)などを除いて、寛永通宝(江戸時代)まで「通貨」の発行はなかったようです。代替品として、布・米・砂金などの生産物や希少品などが使われていたようです。ただこのような物々交換だけでは対価を量ることは難しく、普遍的で安定した価値と品質を持つ通貨がどうしても必要になります。中世期には中国から大量の銅銭を輸入し、国内の経済活動に使用しています。この貨幣は「渡来銭」と呼ばれ中国の唐王朝から明王朝までのほとんどの種類があり、中央の方孔に紐を通し保存や携帯していたようです。 遺跡からは落とし物や祭祀に使われた様子を示す場合や六道銭として墓に納められた状態で発見されることがあります。さらに、蓄財として大量の銭が箱や甕に納められたまま発見されることがあります。当時の有力者が埋納し、掘り出されることがないまま発見されることになったため、由来を知ることは困難ですが、当時の差し迫った事情が窺われます。
 市域では、玉井、小江川、上之で数万枚の銭が出土しています。玉井例では工事中の発見であったため容器の甕が壊れ散乱した銭を回収したところ63種類16,184枚確認されましたが、甕の大きさからすると3万枚前後はあったろうと推測されています。この「玉井古銭」は戦国時代末頃の埋納と想定されており、発見後は市文化センター美術郷土資料展示室に展示されています。
 銭の価値が気になるところですが、物価の換算率を定めた「估価法」によると、寛喜2年(1230)では、銭1枚1文として1,000文は1貫に、1貫は米1石(約150㎏)に当たり、現在の米価格を米10㎏が4,000円とすると1貫は60,000円前後になります。もっとも時代により価値が変化するので戦国時代の終わりころは米一石833文前後で、1文は72円程になり、玉井古銭の試算では総額216万円くらいにはなるでしょうか。
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写真1 玉井古銭展示状況  発見時の銭が散乱した状態を復元

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写真2 上之・諏訪木遺跡出土埋蔵銭の状況  塊になっています。2万枚はあるかも。

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写真3 上之・諏訪木遺跡出土埋蔵銭に含まれる「永楽通寶」
    永楽通寶は中国明銭、戦国時代に多数普及し、関東を支配した後北条氏の税金にも使用された。


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旅の記憶‐9 秩父17番札所 定林寺 [紀行]

 市域の旧家には、戦国時代の興亡を伝える家が多くあります。忍城を拠点とした成田氏の家中、松山城を拠点とした上田氏の家中、鉢形城を拠点とした北条氏の家中、さらに甲斐国武田氏に与した武士や刀鍛冶や甲冑師など職工を祖先に持ち定住したと伝える家系をお持ちの方もいるようです。
 秩父札所17番 定林寺は秩父市内に所在する寺堂で、鐘楼には立派な梵鐘が架けられています。梵鐘は日本百観音の本尊仏が浮彫に鋳込まれ、傍らに各寺の名と御詠歌が刻まれています。かつてこの寺は札所1番とされていたことからこの鐘が造られたとされます。鐘の銘文によると、宝暦八年(1758)に鋳造され、製作者である鋳物師は「比企郡上小用村(現鳩山町)」の清水武左衛門清長」とあり、中世以来小用鋳物師として専門工人の家系を引く人であったようです。依頼者である施主は「本国上野州 生国武州大里郡上新田村住 柴田信右衛門 藤原豊忠」と記されています。 柴田氏は甲斐武田家に属したとされ、上新田に所在する諏訪神社本殿建築にもかかわる有力者です。 
 定林寺梵鐘と上新田諏訪神社本殿は埼玉県指定文化財となっています。
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写真1  秩父札所17番  定林寺 巡礼の人々

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写真2 定林寺の梵鐘 施主 柴田氏の刻銘

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「もの」と「ひと」の旅―9 ―足元の鉄― [紀行]

 市域では低地の遺跡を発掘すると、多くの場合水田下の沖積土は茶褐色や灰褐色をした粘質土ですが、斑状にあるいはシミ状に茶褐色や赤茶色の模様が見えることがあります。時には固く締まり、掘り出すと赤さびの塊のようになっています。よく見ると中心に穴があり「ちくわ状」をしている場合もあります。この塊は「タカシ小僧」とよばれるもので、土中の鉄分がヨシ、アシなどの水生植物の根に集積したものです。大きく成長したタカシ小僧は、褐鉄鉱の塊で製鉄の原料となるようです。
 荒川の砂州やローム台地の雨道には砂鉄が黒々と洗い出されている場面を見ることがあります。このように現われた砂鉄を丹念に採取し、「たたら」と呼ぶ溶融施設を作り砂鉄を焚き上げて鉄塊を得たのです。このようなたたら製鉄跡は奈良・平安時代に入ると荒川河畔に立地している箱石遺跡(寄居町末野)、台耕地遺跡(深谷市小前田)に発見されています。先の遺跡から素材の供給を受けたと思われる市域の集落遺跡からも小鍛冶を行った遺構・遺物が見つかっており、北島遺跡(上川上)、飯塚北遺跡(永井太田)、西別府廃寺(西別府)、一本木前遺跡(東別府)、塩西遺跡(塩)、宮下遺跡(千代)、熊野遺跡(野原)、寺内廃寺東院集落跡(柴)では炉跡や羽口、鉄滓、鋳型などが出土しています。
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タカシ小僧 酸化鉄塊   中条地区採取

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タカシ小僧の検出状況 中条古墳群・中条中島遺跡
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「もの」と「ひと」の旅―8 ―鉄器を造り、使う― [紀行]

 熊谷市内で出土した鉄製品の中で最も古い時期の資料は、4世紀中ごろに築造された塩古墳群第25号墳副葬の「鉄剣」になります。この鉄剣は全長約20cm、刃長13.5cmと小型で一方が片耗しているように見えます。利器として日ごろの使用が窺われ、被葬者の愛用品として納められたようです。今後も集落や古墳から武器や農具などの発見も予想されます。
 では製鉄や鉄器製造はどうでしょうか。製鉄が確認されるのは奈良・平安時代からのようで荒川河畔に発見された台耕地遺跡(現深谷市黒田)や箱石遺跡(寄居町末野)は古代の大規模な製鉄遺跡で砂鉄を溶融したタタラ炉が何基もあって、奈良平安時代を通じて製鉄が行われ鉄素材の主要な供給地だったようです。
 鉄器の製造は村の鍛冶屋といった「小鍛冶」遺構の発見が、行人塚遺跡(5紀前半)・本田東台遺跡(6世紀後半)・熊野遺跡(9世紀前半)・宮下遺跡(9世紀後半)、中条中島遺跡(5世紀前半)など大規模な集落跡での発見が多く、古墳時代中期頃から鉄器の製造が確認されます。この時期は、製鉄の他に須恵器の生産も各地で始まるなど、窯業生産や金属生産に関わった人々は先進的な技術を持った渡来人を含む工人たちで、大和の王権から東国への技術・文化の扶植活動を担っていたと考えられています。末野窯跡(寄居町)では古墳時代後期から須恵器の生産が始まります。
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 写真1 行人塚遺跡の羽口に使われた古墳時代中期の高坏の脚部(上部が被熱により融解している)
 なお、行人塚遺跡と同時期と思われる上丹生屋敷山遺跡(群馬県富岡市)では、高坏転用羽口や鉄滓と共に「鉄鋌」が出土しています。同時期の国内出土「鉄鋌」はほとんど朝鮮半島製とされており、実際に素材として東国に移入され使用していることが知られます。
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 写真2 中条中島遺跡の小鍛冶跡、小炉だが炉底は還元され青灰色となり周囲は赤化していた。炉底は3か所以上確認できた。

参考文献
 1988『本田・東台遺』江南町文化財調査報告第8集(熊谷デジタルミュージアム「図書室にPDF掲載)
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「もの」と「ひと」の旅―7 ―鉄のやってきたころ― [紀行]

 考古学的には鉄は植物製品と同様に残りにくいものです。通例、土中にある鉄製品は腐食し分解しますが、条件が良くても銹の塊となって発見されることか常で、元の姿を知ることが難しい場合もあります。当センターや他の博物館で展示される鉄製品は丹念なクリーニングや欠損部分を補修するなどして保存処理を行った資料です。大刀・鉾・鏃から鎌・鍬先・釘などの武器から工具まで、市域の集落遺跡や古墳から数多く出土しています。
 では、これらの鉄器はどこで作られたのでしょう、あるいは加工されたのでしょうか。鉄の原料は砂鉄か鉄鋼石などですが、素材となる「銑鉄」を作るには大規模な「たたら」の設備が必要ですが、今のところそのような古墳時代の遺跡発見例は知られていません。しかし、素材から製品を作る加工所として「小鍛冶跡」の遺構は市内でも見つかっています。須賀広本田・東台遺跡は「おどる埴輪」の出土した「野原古墳」と野原古墳群の母体となる6世紀中ごろの集落で、住居跡から炉跡や送風管に使った「羽口」、溶けた鉄の塊(鉄滓)が発掘されています。成沢の行人塚遺跡や上中条の中条中島遺跡の鍛冶遺構は5世紀前半の時期で、高坏を転用した羽口や石槌・金床石・鉄滓・炉跡が出土しています。行人塚遺跡の鉄滓を分析したところ中国産の鉄であることが推定されています。同時期の古墳からは鉄挺(てってい)とよばれる延板の鉄素材が副葬されていますが、原料ではなく素材として大陸からの交易品なとどしてもたらされたものです。当時は近畿地方に大仙古墳(仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵)が出現する時期とされ、政治・社会構造の進展とともに人・物資の移動など地域間交流が活発であったと考えられています。
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写真1 椀型をした鉄滓  寺内遺跡出土

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写真2 半裁した鉄滓(写真1)の断面  磁石が付くほどの鉄分が残っていた。

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「もの」と「ひと」の旅―6 ―銅器をかたどる― [紀行]

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写真1 前中西遺跡の石戈の写真

 前回に引き続き、金・銀と来たら銅、次は鉄です。では銅はどうなっているのでしょう。
考古資料としての銅器は弥生時代以降の遺跡から発見されることが一般的ですが、それは東海・中部地方以西が主で「銅鏡」「銅鐸」「銅剣」「銅矛」「銅鏃」などの器種が知られていますが、埼玉をはじめ関東では未だ見つかっていない状況ですが、そろそろ見つかるような気もします。その候補地の一つが市域の前中西遺跡です。長らく市街化整備による街路や住宅の建物敷地の発掘調査を行ってきましたが、弥生時代中期以降の遺構遺物が発見されていて、銅製武器になぞらえた石製の「戈」が完形品1点 破片1点が出土しました。「石戈」と呼びますが、銅戈を忠実に写したもので、長野県佐久市~群馬県安中市域で産出する黒色粘板岩を材料としています。前中西遺跡は信州地方との交流が深く今までにも土器や管玉製品などの類似性が指摘されています。
 信州地方には柳沢遺跡(中野市)から「銅矛・銅鐸」などの銅器が出土していますから、実物を見て石戈を作った人々がこれを携え市域にやってきたことも想定されます。当時国内での銅採掘とその利用はまだないので、素材は大陸からもたらされた貴重品です。大陸との交易が活発になる弥生時代後期には、銅鏡出土遺跡の発見が増えることから、東日本にも銅製品が到達するようです。
 なお、前中西遺跡の石戈は、「九州国立博物館」の特別展示から帰ってきております。
 また最近では独立棟持柱を持つ大形建物発見され、畿内的な祭祀場が設けられていたことも措定され、当地域の中心的な集落であった可能性がより強くなっています。

参考文献
  関東弥生文化研究会埼玉弥生土器観会 編 20014『熊谷市前中西遺跡を語る』考古学リーダー23 六一書房
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旅の記憶‐8  旅の記録―「道中記」から― [紀行]

L1690517s.jpg 妻沼日向の伊兵衛さんは見聞きしたものを詳細に記した「道中記」を残しています。文政十二年(1827)に行われた「道中記」の記録では伊勢参宮の後、長崎まで足を延ばしたことが記されています。さらに、天保年間には越中立山(芦峅(あしくら)寺)~越後の旅へ、明治初年には利根川船運を利用しての東京・横浜までの旅も記録しています。いづれの「道中記」にも立ち寄り箇所の説明や風景をスケッチしており、見て楽しくなる記録です。この「道中記」は―『名主伊兵衛絵入道中記』利根川歴史研究会編2010(土木史フォーラム第39号【PDF形式:1.94MB】)―として刊行されています。
 妻沼弁財の栄左衛門さんも、立山(富山県)から湯殿山(山形県)への旅日記「湯殿山立山道中記」(文政10年―1827)や伊勢―四国―出雲へ旅日記「道中袖日記」(天保11年―1840)を残しています。訪れた名所や行路などを詳細に記録しています。本書は熊谷市史編さん室より『近世道中記』熊谷市史資料集4-2017―刊行し頒布しています。

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大嶋家文書の道中記(本巻収録文書)
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旅の記憶‐7  四国霊場巡拝納経帖  樋春平山家文書 [紀行]

 江戸時代は街道や宿場が整備され人馬の往来が容易になり、武士は参勤交代など、庶民は巡礼や湯治などを目的に旅立っています。市内樋春の旧家に住む勘右衛門さんは「四国八十八ヵ所」を巡り記帳した「納経帖」を残しています。おそらく「伊勢参宮」から「西国三十三箇所」そして「四国八十八ヵ所」の巡礼へ向かったものと思います。このルートは巡礼者の多くがたどった道筋になります。この納経帖には「奉納四国八拾八箇所巡拝」「武州大里郡 願主勘右衛門」の表題と署名があり、天保14年(1843)年の1月14日から記帳が始まり、結願寺での日付は2月22日となっています。
 この旅は、樋春を晩秋の頃出発し伊勢から大阪に入り、「四天王寺」を記帳はじめの第1番とし、西国の札所から四国の札所へ巡礼をしたものです。巡礼後に宮島、出雲を巡ることもよく行われていますが、勘右衛門さんの場合納経帖以外の資料は不明なので前後の経緯はよくわかりません。ただ、伊勢参宮や四国の旅は約3か月超の期間と多くの旅費を要したと思われ、後に名主に就任する勘右衛門さんとしても、旅は世間を見聞きし体験する就学の場と考えてぜひとも行きたかったのではないかと思われます。
 なお、この奉納帖は大きなご利益があるとされ大切に扱われてきたようです。現在でも、御朱印をいただく納経帖(御朱印帳)の作成は人気が高いようです。
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納経帖の始頁、「大阪四天王寺」 納経帖の表紙 四天王寺の朱印が押される

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