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旅の記憶‐15 那須野の開拓へ 3 -熊谷から新天地へ- [紀行]

 那須東原の開拓事業は明治23年頃にはめどがつき、開墾地での本格的な農業経営が始まることになります。生活の基盤か整ったこの地には「埼玉」の名が付けられ、小学校などの公共施設にも明示されています。また、小字に相当する地域名には「稲村・四方寺・奈良・上中条・北河原・熊谷・行田」などが存在しています。開拓地に郷土の地名を付けたのであり、開拓事業に当たった熊谷の人々の想いが伝わってきます。
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写真1 埼玉集落の案内板 (左下方に集落の区分が示されている―写真2へ)
写真2 集落に付けられた熊谷の地名― 通り名には右側には赤字で「さきたま」と記し、 これを頭文字として「わやか西通り」「ぼうの稲村通り」「のしい中通」 「ごころ東通り」とまちづくりの思いが標語となっています。

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写真3 埼玉開墾地の北からの現況  整然と区画された耕地と防風林を背後にした
集落の様子。かつてこの一帯は原生林に覆われていたと思われる。
(グーグルアースより転載)
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「もの」と「ひと」の旅―15 ―どうしても見つけたい銅― [紀行]

 国内での銅生産は奈良時代の「和銅」の発見から始まるようですが、それまでは銅製品の作成は銅塊や銅製品などの輸入素材から造られていました。弥生時代の銅剣・銅鐸や古墳時代の鏡などがよく知られた遺物で、これらを原料として別製品を作ることも国内では行われました。このような日本製品としてつくられた鏡は北島遺跡や冑山地区の古墳からも出土しています。仏教が広まり仏像・仏具や貨幣の鋳造など銅の需要はより高まり、朝廷はその確保に迫られました。地方に国司・郡司が配置された奈良時代以後、全国の資源調査が進められたようです。埼玉県では秩父産出の銅である「和銅」の発見が良く知られています。この発見から元号に使われたともいわれ、「和同開珎」の文字を持つ貨幣が作られました。 
 秩父地方は、古い地層が各所に露出し、鉱物資源や石材資源を得やすい地質と地形に特徴のある地域です。実際、市域から出土する縄文時代の石皿などの石器や古墳の石室石材、中世の板碑、木材資源なども荒川を使い運ばれたものと思われます。 
 熊谷市内からは和同開珎の発見はまだありませんが、「長年大寶」は諏訪木遺跡から、「饒益神宝」は飯塚北遺跡から出土しています。いずれも平安時代前期の集落跡で、長年大寶は嘉祥元年(848)、饒益神宝は貞観元年(859)が鋳造の初年とされています。
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写真1 和同記念碑と和同献上の聖神社の御朱印

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写真2 (皇朝十二銭の一つ)で2枚発見「長年大寶」 諏訪木遺跡出土の遺物
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旅の記憶‐14 那須野の開拓へ 2 -開墾事業- [紀行]

 開墾地は約1200町歩(約3×4㎞)に及ぶ山林原野を対象に、中村孫兵衛を責任者とした「那須東原開墾社」で事業を進めました。実際に現地の開墾作業や事務に当たったのは中村の意を受けた実弟の中村房五郎と現地責任者として入植した大平定治(武体村の出身)です。
 現在、那須野の乳業牧場は有名です。開墾初期から乳牛牧場開発は目標にあったらしく、獣医であり自らも牧場経営を行っていた中村房五郎に協力を求めたと思われます。
 那須塩原市埼玉には、明治22年に造られた「埼玉開墾墓地」があり数十の墓碑が立ち並んでいます。門柱石には大平らの名が刻まれ、この地に生涯を埋めた入植者たちの奥津城であることを示しています。やや離れた西方に「埼玉公民館」があり、敷地の一角に大正3年撰文の大きな「那須東原開墾碑」が建っています。碑文には開墾事業へ傾けた苦心が簡略に述べていますが、先人たちはこの那須野の地に自負を持って埼玉とのゆかりを記るしたように感じました(碑文の全文はこちら(PDF:176KB)に掲載しました)。

参考 熊谷市史編さん室2013「調査報告 那須野ヶ原の開拓地をたずねて」『熊谷市史研究』第5号
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写真1 「那須東原開墾碑」
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写真2 「中村孫兵衛」(1854~1933) 肖像 1922『埼玉県大里郡制誌』より転載
     那須野ヶ原の開墾を決意したのは26歳頃になる。
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「もの」と「ひと」の旅―14 ―長野県からきた黒い石― [紀行]

 考古資料の発見からものの動き(流通)やかかわる古代人の活動圏(移動範囲)を知ることできます。考古遺物は天然自然のものを最小限度の加工を加えて利用していることがほとんどですが、その技術水準は頂点に達している遺物があります。ガラス質の黒曜石を細かく打ち割り、剥ぎ取り造られた小さな鏃は現代人が簡単には造りえない品です。材料となる黒曜石は限られた産出地にしかなく、荒川で拾うことはできません。その産出地も遠く伊豆諸島の神津島、天城、箱根山や長野県八ヶ岳周辺に産出地があり、市内の遺跡から多数出土する黒曜石製のナイフ形石器や矢尻は古代人が採取し運び出したものです。当時、物々交換的な交易品として取り交わされた可能性があり、地方形式の土器が出土する理由も説明できそうです。でも、疑問がわきます、産出地の情報をどうやって知りえたのでしょう。古代人は旅人であり探検家ではなかったかと想像しています。
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写真1 1㎝に満たない黒曜石製の石鏃 千代、西原遺跡出土(縄文時代中期ころ)

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写真2 1.6㎝に及ぶチャート製の石鏃 千代、西原遺跡出土(縄文時代中期ころ)
 分析により黒曜石は長野県八ヶ岳 霧ヶ峰周辺の採取、チャートは荒川河原などの近辺の採取と思われる。

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写真3 塩西遺跡出土の黒曜石片 旧石器時代
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旅の記憶‐13 那須野の開拓へ 1 -熊谷人の先人- [紀行]

 明治維新後、それまで土地に縛り付けられていた多くの農民は基本的に移動の自由が保証されました。近代国家建設への道を急ぐ政府の新政策に、多くの人々は戸惑いを見せながらも、新時代の到来を歓迎した人々もまた多かったようです。そのような開明的な一人であった荻野吟子は医師となり北海道に渡ったことはよく知られています。
 そのような郷土人の足跡を紹介します。ところは、栃木県那須野ヶ原、現在は牧場や農場が広がり、高級リゾート地としても知られています。しかしこの地域は明治時代以降の厳しい開拓事業により完成されたものです。その事業に市域の人々が深く関与していました。那須野ヶ原の開拓事業は明治政府の肝いり事業の側面もあり、政府高官や財界人も事業にかかわっていました。その一人に内務省出仕の吉田市右衛門(下奈良―第5代 市十郎)がおり、地域の繋がりから吉田二郎(四方寺)や稲村貫一郎(上川上)、八木原市三郎(上川上)、長谷川敬助(北河原)、中村孫兵衛(上中条―後の大里郡長)らも参加していました。彼らの開拓地は『埼玉開拓』とも呼ばれ、現在も「那須塩原市埼玉」として現地に、地図に残っています。
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写真1 那須連山の山麓に広がる埼玉開墾地の現況 区画された耕地と集落が散在する。(グーグルアースより転載)
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写真2 吉田市右衛門宗載 肖像(後 市十郎と改める) (1845~1906)
維新政府に認められ内務省に出仕する一方、多くの社会事業に尽くした。
右写真 那須開墾社からの原野地割あて状

※参考 奈良の吉田家は初代「宗以(むねとも)」、2代「宗敬(むねたか)」、3代「宗敏(むねとし)」、4代「宗親(むねちか)」、5代「宗載(むねとし)」と続き、市域や近隣の水害被害、飢饉などへの救済や食料援助、様々な社会福祉・慈善寺事業を続けた稀有の人々である。吉田家には初代以来「華美を慎み諸費を倹約して社会公共のため尽くせ」「家産の三分の一を公益に供すべし」などの遺言や家訓が代々守られ実行されていた。奈良「集福寺」に代々の墓所があり「埼玉県指定史跡」となっています。

参考図書 2014「熊谷集福寺所在の吉田家墓所」熊谷市史研究 第6号
     2014『吉田市右衛門家文書「記録」』熊谷市史資料集1
     2019『吉田市右衛門家文書2「諸事纂要」』熊谷市史資料集5―子孫への家訓を掲載している。
     肖像と文書写真は1934『吉田家五世の事蹟一斑』より転載
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旅の記憶‐17 ―路をたどる宗教者― [紀行]

 道の語源は人首をかざして魔物を避けながら進んだ場所が人の通行する場所になったとされます。私見では道はまだ知られていない土地への通路であり、「未知」の世界をつなぐ意味からも「みち」とするのではないかと考えたりします。また、「路」は整備された通路と考えます。
 古代には、朝廷の主導で地方と都を結ぶ陸の道、海の道が造られ、要所に駅や津という交通施設が置かれました。朝廷の管理する「官道」と、住民が交易や日常的に使う道もあって、列島に葉脈のように広がっていました。古代武蔵国は東山道と東海道が官大道になります。
 中世では鎌倉に幕府が置かれたことにより鎌倉道が整備され、人馬物資の移動もより盛んになり、上は貴族や武士から下は庶民や流浪の宗教者と言われる「聖」まで諸国を通行していました。時宗開祖の一遍は諸国を巡り「南無阿弥陀仏」の賦算(ふさん)を60万人の人々に手ずから配布する願いの元、終生を旅に生きました。亡くなるまでにおよそ250万人に達したといわれています。時宗第二祖の「真教」(下記パンフ肖像参考)は師と同じく全国を巡り、熊谷市域にも足跡を残しています。当時の「村岡」に滞在したり「浅提(せんだいと読んで市域の「千代」と想定される。)」に訪れていることが、『遊行上人縁起絵』第7巻第10巻にみえます。埼玉では鎌倉道に沿った嵐山町川本町深谷市に時宗寺院が分布する特徴があります。
 詳しく知りたい方は、折よく、下記の特別展が11月10日まで開催されています。

写真1 時宗74代遊行上人「他阿真円上人」 大正8年生 が、妻沼聖天山に訪れた時(2015.9.12)に戴いた「南無阿弥陀仏」の賦算。開祖一遍上人以来、この賦算をあまねく人々に手ずから渡したという。
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写真1 賦算「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」 パンフ 【特別展】時宗二祖上人(にそしょうにん)七百年御遠忌(ごおんき)記念 真教と時衆
神奈川県立歴史博物館


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「もの」と「ひと」の旅―13 ―仏の来た道 最初の仏教遺品 立野古墳群出土杏葉― [紀行]

 杏葉とは乗馬用の馬具のなかで、馬の頭部から胸や尾に掛けまわした「胸懸―むながい」や「尻繋―しりがい」に付けられた皮革や金銅で造られた装飾品です。
 立野古墳のものは、銅板に金メッキを施し皮革に鋲留したようです。繋ぎとなった皮革は腐朽して残りませんが、金銅版の表面には細い線で模様が彫られています。唐草文が元になったデザインとされ、6世紀から7世紀に馬具や仏像の金具などに類例を見ることができます。精巧な製品であり、盗掘によりほとんどの部品は残りませんが完存していれば藤木古墳の馬具のような豪華な馬具であったかもしれません。類例品を見ると飛鳥の朝廷からもたらされた品で、日本最初の寺院「飛鳥寺」の本尊仏を製作した鞍作止利に代表される渡来人の一族は、その名から馬具の製作に当たった専門工人集団だったと考えられています。
 古墳時代も終末期に築造が始まる立野古墳群の被葬者達は中央との特別な結びつきを持った集団で、推古天皇の摂政となった厩戸皇子の東国の領地である壬生部を管理運営した吉志氏の一族と考えられ、その関係によりもたらされた品ではないかと考えています。
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写真1 盗掘され石室下部しか残らない 立野12号墳 手前羨道部の覆土から杏葉が出土した。

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写真2 杏葉 2点 花弁状をして細い直線と曲線で火炎状の模様を彫りつけている。7世紀後半から8世紀初頭までの時期。

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旅の記憶‐12 ―昭和初年のサイクリング― [紀行]

 服部清道は板碑の研究者として知られ、板碑研究の基本図書とされる『板碑概説』昭和8年(1933年)を公刊している。研究調査の途上、市域を巡った小旅行の随筆を残している。「毛武紀行」と題した一編の第三章―世良田から熊谷まで―にみえる昭和10年7月に行われた小旅行をたどってみよう。
 毛は毛野つまり、古代北関東の名で群馬栃木一帯を云う。服部は、群馬県太田市から利根川を越え武へ入る。武は武蔵で埼玉県妻沼町の古戸渡しを暮れ方「渡し船」で通行し、バスで熊谷市街に入り知人の宅へ泊す。翌朝、自転車を駆っての文化財探訪を始めた。服部の服装は和服に下駄履きだったが自転車走行は意外と快適だったとしている。
 訪問地は、(熊谷 8時発)―玉洞院―大我井板碑(当時の妻沼小学校)―聖天堂―安楽寺(別府氏板碑)―(玉井)―一里塚―(熊谷市街 昼食)―熊谷寺―(荒川越え)―嘉禄の板碑(須賀広 大沼公園)―茶臼塚板碑(村岡)―熊谷市街(4時20分着)
 この行程では服部の興味のあった板碑を中心に観察している。同行したのは熊谷の知友岡部親子と熊谷の写真屋さんとある。各所で撮影したようであるが、写真は掲載されていない。残っていればぜひ見てみたいものと思う。
 なお、服部は大我井板碑の背面種字間にかすかに見えた紀年銘を「正和五年丙辰二月十□日」と呼んでいるが、現在は確認することはできない。嘉禄銘板碑の紀年銘も「嘉禄二年大才 丙戌二月二日」と判読しているが、現在は嘉禄三年丙辰六月二十二日」とされている。
また、安楽寺の板碑については右側から、文和三年銘―寛元二年銘―年季欠―五輪塔一基とあり、現在の造立順とは異なっているが、これは天明2年(1782)に高山彦九郎が見た時と同じである。
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写真1 現在の別府氏板碑と五輪塔

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写真2 服部清道の著書『郷土文化を探る』と『徒歩旅行者の歴史学』 埼玉県指定史跡「別府氏墓」

参考 服部清道 1943 『郷土文化を探る』牧書房
   服部清道 1944 『徒歩旅行者の歴史学』牧書房
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「もの」と「ひと」の旅―12 ―百済で使われたつぼ― [紀行]

 櫛挽台地の縁辺部に当たる奈良―中条―上之―池上付近はかつては湧泉が多くみられ、派生する小河川や水路により農業水利として古くから活用され、貴重な水源地は神の住まうところとして社や祠が建てられその環境を守つていました。
 平成3年に行われた諏訪木遺跡(上之)の発掘調査では、小河川跡から祭祀遺物が多量に出土し、この須恵器が見つかりました。筒形寸胴の体部に朝顔のように大きく広がる口縁がつく「広口壺」なのですが、よく見る壺や甕とはかなり異質で発見当時から注意されていました。6世紀後半以降の「中の山古墳(さきたま古墳群)」と桜山窯跡(東松山市)、末野窯跡(寄居町)で同形品が出土したことから、県内での生産、埋納が確認されました。この須恵器壺は「有孔広口筒形土器」「平底短頸壺」と呼ばれ韓国の古墳上に埴輪のように配列された例(伏岩里2・3号墳―全羅南道羅州市―5世紀後半から6世紀前半)が知られています。須恵器の製法とともに日本にもたらされた形と使用方法のようです。日本国内では九州北部、近畿地方、伊勢地方と北関東地方から多数発見されており、百済からの渡来人のもたらした器物のひとつと考えられているようです。
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写真1 諏訪木遺跡出土の須恵器壺

参考文献 穂積裕昌 2018『伊勢神宮の考古学』―北野遺跡
     田口一郎 1995「平底短頸瓶覚書―東国の渡来文化研究 Ⅰ」『群馬考古手帳 5』
     坂 靖     「考古資料からみた百済と日本―生産工人の交流―」
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旅の記憶‐11 ―行旅の人 高山彦九郎― [紀行]

 生涯にこれほどの旅を行いその見分と道中記を綿密に記した人物は数少ないと思います。天明飢饉に際し、東北地方を巡る旅程の途上で聞き取った天明飢饉の災禍の生々しく冷静な記述は今も胸を打つほどです(北行日記)。その人は高山彦九郎といい、市域とも少なからず関わりの深い人物です。現在の太田市細谷の地に延享4年(1747)に生まれ、親戚縁者が妻沼地域にいたことから、たびたび市域を行き来しています。
40冊余り残された旅行記の中には市域の関係者や地名が多出し、市域の記事も多くみられます。詳細は全集や「高山彦九郎記念館」の展示・同館のデータベースが参考となることから、ぜひ現地やホーム頁を訪れてみてください。
 なお、市域を目的とした小旅行記として安楽寺の所在する西別府を訪れた記録、「武州幡羅廻」があり、安楽寺に建つ別府氏の五輪塔と板碑を見分し簡潔な図も残しています。図と記述によると碑は九体堂の東側に東向きに立ち並んでいますが、板碑の並び順は現在と逆です。安楽寺の板碑・五輪塔は別府氏の供養塔とされ文和3年(1354)の板碑には藤原頼重の銘を持ち、埼玉県の指定文化財となっています。彦九郎は地域の歴史に関心があったようで、次ぎに深谷城跡を訪ねています。
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写真 現在の別府氏板碑と五輪塔、右側板碑3基、左側に五輪塔2基

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図 高山彦九郎元図の板碑と五輪塔 写真 文和3年銘板碑の銘文
「甲斐守藤原頼重世寿四十一歳法号常賛矣」と刻まれる

参考  『高山彦九郎全集』 1~5巻 西北出版 1978  
第2巻に「武州幡羅廻」、第3巻に「北行日記(奥羽紀行)」を掲載
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