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「もの」と「ひと」の旅―8 ―鉄器を造り、使う― [紀行]

 熊谷市内で出土した鉄製品の中で最も古い時期の資料は、4世紀中ごろに築造された塩古墳群第25号墳副葬の「鉄剣」になります。この鉄剣は全長約20cm、刃長13.5cmと小型で一方が片耗しているように見えます。利器として日ごろの使用が窺われ、被葬者の愛用品として納められたようです。今後も集落や古墳から武器や農具などの発見も予想されます。
 では製鉄や鉄器製造はどうでしょうか。製鉄が確認されるのは奈良・平安時代からのようで荒川河畔に発見された台耕地遺跡(現深谷市黒田)や箱石遺跡(寄居町末野)は古代の大規模な製鉄遺跡で砂鉄を溶融したタタラ炉が何基もあって、奈良平安時代を通じて製鉄が行われ鉄素材の主要な供給地だったようです。
 鉄器の製造は村の鍛冶屋といった「小鍛冶」遺構の発見が、行人塚遺跡(5紀前半)・本田東台遺跡(6世紀後半)・熊野遺跡(9世紀前半)・宮下遺跡(9世紀後半)、中条中島遺跡(5世紀前半)など大規模な集落跡での発見が多く、古墳時代中期頃から鉄器の製造が確認されます。この時期は、製鉄の他に須恵器の生産も各地で始まるなど、窯業生産や金属生産に関わった人々は先進的な技術を持った渡来人を含む工人たちで、大和の王権から東国への技術・文化の扶植活動を担っていたと考えられています。末野窯跡(寄居町)では古墳時代後期から須恵器の生産が始まります。
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 写真1 行人塚遺跡の羽口に使われた古墳時代中期の高坏の脚部(上部が被熱により融解している)
 なお、行人塚遺跡と同時期と思われる上丹生屋敷山遺跡(群馬県富岡市)では、高坏転用羽口や鉄滓と共に「鉄鋌」が出土しています。同時期の国内出土「鉄鋌」はほとんど朝鮮半島製とされており、実際に素材として東国に移入され使用していることが知られます。
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 写真2 中条中島遺跡の小鍛冶跡、小炉だが炉底は還元され青灰色となり周囲は赤化していた。炉底は3か所以上確認できた。

参考文献
 1988『本田・東台遺』江南町文化財調査報告第8集(熊谷デジタルミュージアム「図書室にPDF掲載)
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