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旅の記憶‐6  伊勢神宮を参詣した参拝記念の品 [紀行]

 江戸時代には伊勢神宮に属した「御師」といわれる案内人が全国各地の信者へ伊勢参宮への様々な便宜や手配をしていました。伊勢を目指した信者の一行は御師の経営する宿に逗留し神宮での祭祀や神楽の奉納などを行いました。いわば神社と連携した旅行代理店的な仕事や神宮の発行する年々の暦やお札などの配布を行っていたのです。明治時代以降は御師は廃止されましたが姿を変え伊勢参宮の手助けをしていました。市域の神社には奉納された絵馬・額・水鉢、鳥居、瑞垣、階(きざはし)など記念物が奉納造立され、家庭には天照神の軸が飾られるようになりました。参詣者たちの旅の証です。
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 数多く飾られた参拝記念の額や絵馬―市内
 中央は伊勢神宮に太太神楽を奉納したことを示す大きな扁額背後の額も同じ
 前の額は明治18年(1885)1月20日、後の額は天保(1844)15年1月26日執行と記されている。

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神楽奉納記念の盃
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「もの」と「ひと」の旅―5 妻娘たちへ [紀行]

 都へ出仕した武士たちは多くの文物を故郷へ持ち帰りました。その品々の中には家族、特に女性へのお土産は欠かさなかったと思われます。上中条のさすなべ遺跡からは、紅差しに使われた器が出土しています。菊皿(大小組み合わせた入子となる)といい、菊花状に縁を折り曲げた小さな陶器で紅(口紅)を入れたものです。都から運ばれ妻や娘にもたらされた品の一つです。「香合」は、香料を入れたものとされ、合わせ型の小品で中国渡来の白磁や青磁の品で小さいが高級品です。女性向きといえるでしょうか。また、「かがみ」と「櫛」は直球勝負の品でしょうか。
 これらの品は妻沼経塚や上中条のさすなべ遺跡などで出土しています。「和鏡」は花鳥の模様が通例です。櫛はなかなか残らないのですが、万吉下原遺跡の例では和鏡の上にほとんど朽ちた櫛が3点残っていました。当時の絵巻物では装束や調度品、など他にも多くの文物がみられます。都から東路の旅の到着点は家族の元なのでしょう。
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「青白磁合子」―妻沼経塚出土
上中条、さすなべ遺跡出土の「入子」破片
内面に紅朱が残り赤茶褐色に染まっている。
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「山吹双鳥鏡」‐妻沼経塚出土 「灰釉入子」―参考品

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旅の記憶‐5  関所手形と結願奉納絵馬   板井 飯島家文書 出雲乃伊波比神社 [紀行]

今から約170年前、黒船来航に始まる幕末の混乱が始まろうとする2年前に、市内の板井から旅の一行が伊勢参宮に旅立ちました。仲良し五人組といったところでしょうが、旅の目的は単なる娯楽ではなく、村中から代参を請け負っていたようです。村中での参拝や神楽奉納を行いお札など授かってきたと思われます。
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 文書の写真は板井村の名主から出された箱根関所の通行手形です、一行は東海道をたどったことがわかります。文面は次の通り、
『差上申一札之事  一、男五㊞人  右之者共此度伊勢参宮仕候間 御 関所無相違御通被 遊可被下候  為後日通手形依而如件   武州男衾郡板井村   名主 平重郎 ㊞ 嘉永四年亥極月十九日 箱根御関所御役人衆中様』
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 一行は参詣を済ませ無事板井村へ戻ったようです。無事の帰還を祝い、鎮守社の出雲乃伊波比神社に奉納された絵馬には五人の姿と署名が描かれています。
 絵馬の背面には「嘉永四年(1851)亥年十二月十九日発足 同五年(1852)二月二十二日帰国 伊勢参宮同行」と銘記されています。新年をまたいで約65日間の旅の証明です。

参考【「武蔵国男衾郡板井村 飯島家文書549 『江南町史 資料編3 近世』」
 江南町史 資料編3 近世 383頁掲載 江南町史 通史編上巻677頁記載】
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「もの」と「ひと」の旅―4 都ぶり ちょっと贅沢に都の雰囲気を [紀行]

 平安時代末、関東の武士は大番役という都の警備を行う役務のため京へ向かいます。関東と異なった都での生活は関東武士にとって大きな刺激となったはずです。畠山 中条 久下 熊谷 別府 成田の地名を姓とした多くの武士たちは、拠点とした館と耕作地が一族の暮らしの場でありました。しかし、市内に残る館跡を発掘調査した例は少なく、その実態はあまり知られていない状況です。一部の発掘調査により、中条氏に関係する「さすなべ遺跡」や畠山氏の関与が想定される下田町遺跡の館跡からは都ぶりを示す飲食具などが多数出土して注目を集めています。都での生活様式の一部を関東へ持ち込んだと云えるでしょうか。出土した器具(かわらけ)は、都と同様の品で、それを使って旅立ちや帰還の儀式や宴席を設けたのでしょう。白磁・青磁などの陶器類と共にもたらされた上級品といえます。
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上方―白磁  中下段―青磁 いづれも中国陶磁器、破片ですが輝きを失ってはいない。
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大小の「かわらけ」  儀式や饗応に使われ廃棄された。

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旅の記憶‐4  巡礼供養塔  六十六部廻国巡礼塔 [紀行]

 六十六部は、大乗経を書写し国内六十六国の巡礼寺院に納めて歩く巡礼者の呼称です。代理に参詣を請け負うこともあり、旅僧や修行により諸国を遍歴して歩く行者や聖と呼ばれ人々や村の代表者などが行ったようです。個人が行うことは大変な労力・費用・期間を要したと思われ、巡礼を達成した時の喜び大きかったと思われ結願の石碑が造られたようです。市内には近代期までに多数の碑が建てられています。
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妻沼小島所在の六十六部供養塔 男沼所在の「四国・秩父・坂東・新四国」巡拝供養塔

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「もの」と「ひと」の旅―3 権力のかたち  金銀の輝きとヒスイ [紀行]

 古墳時代になると、大豪族から庶民まで、出身一族への帰属意識と大王家に属する政治的地位を意識するようになり氏(氏)や姓(かばね)といった出身や身分を主張するようになります。権力や身分をわかりやすく示すために、金銀宝玉で自己や周囲を飾ること、大規模古墳の造営・武器の獲得などに熱心だったようです。出土品には玉類に加えて金銀の製品が目立つようになります。当時の金銀の産地は日本では知られておらず大陸からの招来品と思われますが、市域の多くの古墳からも金・銀を使った「耳飾」「馬具」「刀装具―刀や鐔など」が発見されています。秩父地域から自然金も産出しますがその利用は多くはないようです。
 また、市内の鵜ノ森遺跡から出土した腰に付けたベルトの装飾品「石帯」は秩父ヒスイで造られたことが分かっています。秩父地域では銅の産出も有名で、鉱産物資源の開発が盛んであったことをうかがわせます。これらの貴金属や宝玉を身に着けたひとは古墳時代は有力豪族の成員、奈良時代は地方役人のような人物だったと思われます。
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1 鍍金耳飾―野原古墳出土 2 銀象嵌鐔と鞘口金具―塩西原18号古墳出土

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3 銀装把金具―塩西原18号古墳出土 4 秩父ヒスイ製「石帯」鵜の森遺跡出土

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旅の記憶‐3  幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場― 石造物 [紀行]

 幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場であることを示す傍示石が門前に建てられていました。定まった形はなく寺々により思い思いの意匠によって造られたことが分かります。共通点は幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場と番付の標示と共に弘法大師の像が彫られていることです。参詣の折には注意深く境内の石塔を見ていただくと見つかると思います。
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 弘法大師像の彫られた巡拝石塔の各種類―本尊と札所番付、寺院名などが彫られている。
 1は妻沼小島 第55番 医王寺 (参考図書等では番外となっている)        
 2は出来島 第84番 普門寺
 3は中奈良 第26番 西福寺 天保7年(1836)の建立
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「もの」と「ひと」の旅―2 いのちのかたち、勾玉 [紀行]

 地球生命は進化という歴史の過程で様々な変革を遂げ、ヒトの出現に至っています。胎児は進化の変容を順にたどっているとされ、私たちの先祖は胎児の姿のような勾玉に命の形を感じ取り守護の想いを寄せてきました。その形を長く保つため美しく堅牢な石材として硬玉(ヒスイ)を素材として大珠や丸玉・勾玉が造られています。既に縄文時代には出現し、弥生から古墳時代の墳墓や古墳などの遺跡から発見されています。発見状況から限られた人物に伴う貴重品であったことが推定されます。
 永らくヒスイの産地は忘れ去られていましたが、昭和時代になりその産地が新潟県糸魚川や姫川周辺にあることが再発見されました。市域で出土する古代のヒスイ製の玉類の多くはこれらの地域で採取されたものと考えられています。
 妻沼飯塚南遺跡から出土した「ヒスイの勾玉」は白色半透明で緑色が淡く筋雲状に所々に混ざる質感から現在の姫川のヒスイによく似ているように思います。このヒスイ勾玉が熊谷市飯塚にやってきてた経路やかかわった弥生人については、共に発見された土器が長野県北信部の影響を持つ土器であることから、稲作農耕の伝番者あるいは開拓者の一団の長に当たるひとが身につけていたと考えられるでしょうか。
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1 飯塚南遺跡の勾玉 2 一本木前遺跡(東別府)のヒスイ勾玉―古墳時代
image017s.jpg 3 飯塚南遺跡の壺形土器

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旅の記憶‐2  幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場  妻沼聖天山 [紀行]

 幡羅郡八十八ヵ所に該当するほとんどの寺院は現在でも存続していますが、明治維新による神仏分離政策のため廃絶した寺院は20ゕ寺ほどで、消滅あるいは一堂だけの状態で存続しています。そのため江戸時代に完成された札所番付も明治時代以降に再編されたようです。参考「寺院番付表」(『新四国八十八ヵ所霊場』長谷川宗平1986による)
 当時の石造物や御詠歌額を見るとそのような転変の歴史が窺えます。新緑の候、身近な幡羅郡内の札所巡り、その歴史を訪ねて散策はいかがでしょうか。
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↑ 聖天山「中門」に懸かる札所番付、左側の札が「幡羅郡新四国札所」の標示札
 いまは「聖天山歓喜院」は幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場では第13番札所となっている他、関東の霊場にもなっています。また聖天山の境内には「四国八十八ヵ所霊場」の塔が所々に建てられており、ミニ札所巡りができるのも楽しい。
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妻沼聖天山の御朱印 四国 第八十一番白峯寺の塔

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「もの」と「ひと」の旅―1  土器と黒曜石―・船川遺跡 [紀行]

 考古学の研究から、本格的な定住がはじまったのは、土地に働きかけ収穫物を獲る農耕社会になってからとされ、日本では弥生時代より二千年超を経過したといったところです。弥生時代以前の縄文時代から旧石器時代は一時的な定住はあったにせよ、16,000年以上の期間が移動回遊を生活の基本とした旅の時代でした。旧石器時代は石器のみ、縄文時代は土器が加わり生活の痕跡である集落や墓所などに遺された品が発見されることになります。 
 旧石器時代の遺物はほとんど石器しか残りませんが、良く発見される石器は斧や槍先・ナイフなど刺したり切ったりする道具と考えられています。黒曜石と呼ぶ火山ガラスの石材が使われることが多く、八ヶ岳(長野県)や箱根(神奈川)、神津島(東京)などの火山地帯に産出地があり、市域にはこれらの産地から運ばれたことが明らかです。
 写真1は籠原裏遺跡から出土した黒曜石製の尖頭器。写真2は船川遺跡で発見された石鏃で特徴的な形(ほぼハート形)と製法(厚みの部分を研磨する)から「局部磨製鍬形石鏃」と呼ばれるものです。これらの石器は八ヶ岳周辺の黒曜石産地のひとつ、西霧ヶ峰近辺から採取されたと推定されています。船川遺跡からは樋沢式土器と呼ぶ山形押型文土器(ジグザク溝のタイヤを転がしたような模様を持つ―写真3)も出土しており、土器や石器が共通することから、岡谷市周辺や八ヶ岳周辺の人々との係りや石材等の移動が想定されます。
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