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きかは便便96 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介96回目。今回は「吉田市右衛門之墓」です。
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吉田市右衛門3代目の宗敏(1783-1844)のお墓です。墓石には、「徳寿宗敏信士之墓」と刻まれており、奥には墓碑が建てられています。
写真は金で縁取りされており、右側に「贈正五位吉田市右衛門宗敏之墓」、下に「大正七年十一月」、左下に「武陽奈良村集福寺内」と書かれています。
「吉田市右衛門墓」は、市内下奈良の集福寺内に所在し、昭和36年に埼玉県指定記念物 旧跡に指定されています。墓地が絵葉書になっている珍しいものです。
現在の写真が↓です。
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きかは便便95 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介95回目。今回は「吉田市右衛門宗敏」です。
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下に「吉田市右衛門宗敏」と思われる脇差を差した男性が、「丸に三つ星」の家紋の付いた羽織を着て描かれています。上部には「奉公竭力納 衆務施積而 克欲聖賢是 師 乙巳中元前二日 五山桐樵題」と記されています。読み下すと「公に奉じ、力を竭し、衆務を納め、積を施して欲に克ち、聖賢、是師なり」となります。「竭」はつくす、「衆務」は多くの仕事、「克」は欲を努力して押える、「聖賢」は知徳の最もすぐれた人の意です。右下には「静知斎洞薫謹書」と記されています。
写真は金色で縁取りされており、右側には「贈正五位吉田市右衛門宗敏之像」、下には「大正七年十一月」と印字されています。
「五山桐樵」「静知斎洞薫」がどのような人物かは不明です。
明治38年に描かれた軸物を写した写真で、現物は現在所在不明です。

吉田家は市内下奈良で代々「市右衛門」を名乗り、初代から宗以(1703-1792)-宗敬(1739-1813)-宗敏(1783-1844)-宗親(1816-1868)-宗載(1845-1906)と五代にわたり、社会事業家・慈善事業家として、私財を投げ打って物資などを援助し、近隣の村々などから多くの尊敬を集めました。
2代宗敬は、村内や近村にかかる橋を石橋に架け替えたり、浅間山の噴火の時に被害者に援助物資を送りました。3代宗敏は、用水や河川の改修のためのお金を上納したり、備前掘用水の大改修を行ったり、飢饉への援助を行いました。5代宗載は、凶作の時の食糧援助や教育施設への寄付などを行いました。

きかは便郵94 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介96回目。今回は、熊谷市公会堂です。
写真には写っていませんが、この建物の左側には熊谷町役場が立てられていました。この二つの建物は、昭和8年(1933)4月1日の市制施行に合わせて新築されたもので、とぢらも昭和20年の熊谷空襲で焼失しています。
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写真左手には「HALL KAWAKAMI 川上食堂」と書かれた看板が掲げられています。公会堂の中に入っていた食堂の名前と思われます。
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以前紹介した「きかは便郵47」の公会堂写真は植栽が無く、「きかは便郵45」で紹介した、公会堂正面写真に比べ、植栽の木が増えて大きくなっています。したがって、撮影の順序としては「きかは便郵47」⇒「きかは便郵45」⇒「きかは便郵94」の時系列で撮影されたものと判断されます。
写真左下には「熊谷市公会堂」と印字されています。

この写真の撮影年代ですが、熊谷公会堂が完成した昭和8年(1933)4月1日から、焼失した昭和20年(1945)8月15日の間で、植栽の状態から恐らく昭和10年代に撮影されたものと思われます。

きかは便郵93 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介93回目。今回は「熊谷堤の櫻」です。
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満開の桜堤の上には、大勢の花見をする人が写っています。空には2機の複葉機が飛んでいます。
右側の複葉機を拡大したものが↓です。
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翼の部分以外は骨組だけで、車輪も4つの輪のようです。実機かどうか、本当に飛べるのか疑わしいくらいの簡単なつくりです。写真下には、(熊谷名所) 熊谷堤の櫻(其二) (小坂藤華堂印刷)と印字されています。
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はがき表面には1銭5厘切手が貼られており、昭和17年4月11日の消印が押されています。
通信欄には、「・・・数日来の暖かさで花が咲いて丁度今頃は見頃です。然だし今年は寒さが孫の外長引きました。只今も近い山の頂が白く変わりまして朝夕思ったより冷たいのです。・・・昨日一昨日も臨時列車が出ましたが発車前二十分前から改札が締め切りといふ馬鹿騒ぎです。・・・十七日」と昭和17年春の熊谷の様子が記されています。

きかは便郵92 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介92回目。今回は「熊谷の桜」です。
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満開の桜並木の両側には屋台が並び、和服姿の大勢の人々が写っています。
写真左手前の屋台には、仁丹の幟旗と細長い竹ひごにぶら下げた人形が売られています。
右手前には、白手袋をはめ、警棒を下げた警官の後姿が写っています。
写真の下には、「東京名所 熊谷の櫻」と印字されています。
当時のお花見の、賑やかな様子が伝わる貴重な写真です。
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はがきのあて名面の左上の切手を貼る位置には、「TRADE MARK 本 KANDA TOKYO」と印字されており、東京神田の本屋で販売されていたものと思われます。

この葉書の製作年代ですが、宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前に作成されたものと考えられます。

きかは便郵91 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介91回目。今回は「熊谷養蜂場」です。
民家の庭先に蜜箱が並べられており、帽子を被った男性2人と、子供を抱いた着物姿の女性が一つの蜜箱を取り囲んで写っています。左側の男性は右手に燻煙器を手にしており、右側の男性は、密箱の中の木枠を取り出しています。
写真下には、「熊谷名所 熊谷養蜂場内之景 其二」と印字されています。
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明治~大正期に、熊谷市内での養蜂の実態については良くわかりませんでした。写真では、民家の庭先で行われているようです。
現在隣の深谷市には、創業明治43年の熊谷養蜂株式会社があります。大正6年刊行の『熊谷大観』には、「種蜂養蜂器具、養蜂書籍販売、蜂蜜販売の熊谷町 熊谷養蜂場」の広告が掲載されていることから、石原地内の養蜂の写真を写した可能性があります。

この葉書の製作年代ですが、宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前に作成されたものと考えられます。

きかは便郵90 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、90回目。今回は「荒川之清流」です。
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荒川に木製の冠水橋が架かっています。対岸は、水面から5m程の崖線をもって低位段丘面になり、民家が数軒建てられています。写真左下には河原が写っており、長さ10~20cm程の亜円礫と直径50cmはあるかと思われる礫が写っています。遠方には秩父山地と思われる山並みが写っています。
写真下部には「熊谷名所 荒川之清流 杉浦書店発行」と印字されています。
熊谷市内では、押切橋と久下橋がかつて冠水橋でした。しかし、両橋とも妻沼低地に立地しており、写真のように山並みが写りこむ場所はありません。押切橋より3km程上流の深谷市の植松橋、さらに3km上流の花園橋が冠水橋であり、これより上流になると段丘崖線が10mを超えることから、秩父山地により近い花園橋付近で撮影したものと思われます。

この葉書の製作年代ですが、宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前に作成されたものと考えられます。

きかは便郵89 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、89回目。今回は「中村前大里郡長銅像」です。
大里郡役所と思われる木造2階建て、瓦葺の洋風建物の前に設置された銅像が写っています。
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この写真は、明治45年(1912)、中村孫兵衛(1854-1933)の銅像除幕式記念に撮影されたものと思われます。中村孫兵衛は、上中条村に生まれ、23歳の時上中条村戸長を務め、明治12年最初の県会議員に当選、同15年に副議長、同19年に秩父郡長、同23年に南埼玉郡長、ついで大里郡長を歴任し、名物郡長と呼ばれました。その後この銅像は、熊谷寺境内に移されました。

「大里郡」は、明治12年(1879)3月17日、郡区町村編制法の埼玉県での施行により、行政区画として発足しました。「郡」は、府県と町村の間に置かれた広域行政体で、郡役所が置かれ、郡長が任命され、議会が開かれましたが、僅か半世紀でこの制度は廃止されました。大里郡役所は熊谷宿に設置されましたが、大正15年(1926) 7月1日には、郡役所が廃止され、「大里郡」は以降、地域区分名称となりました。

また昨日、本ブログの総閲覧者数が640,000人を超えました。今後ともよろしくお願いします。

きかは便郵88 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介88回目。今回は、「松本製粉所第二工場」です。
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写真は、手前に高崎線の線路が走っており、線路脇に塀で囲まれた平屋の工場と3階建ての建物群が写っています。 写真奥には、煙を出す高い煙突があり、片倉製糸所の煙突と思われます。
左上には髭を蓄えた正装の男性が写っています。大正4年、松本米穀製粉株式会社を設立した松本平蔵の長男で跡を継いだ、松本真平(1876-1972)です。
写真の下には、「熊谷松本製粉所第二工場 中村写真館発行」と印字されています。

松本製粉所は、安永元年(1772)、 松本重左衛門の二男源之丞が本町2丁目に糸繭商として店をかまえ、その後文化年代に穀物商を営むことに始まります。大正3年(1914) 松本米穀店と改称し、松本米穀製粉株式会社を設立。昭和5年(1930)、 名古屋製粉株式会社及び新田製粉株式会社を合併し、製粉部門を日東製粉株式会社と改称し、松本米穀肥料株式会社を設立しています。この松本製粉所は、松本米穀精麦株式会社として現在まで続く200年企業として、熊谷市内でも有数の老舗企業です。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前。
3.松本米穀製粉株式会社の設立は大正3年(1914)。
このことから、この写真は大正3年(1914)~大正7年(1918)の間に製作されたものと思われます。


きかは便郵87 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介87回目。今回は「清水染工場」の年賀状です。
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文面は。「奉賀新春 昨年中は百事御引立を蒙り奉拝謝候尚本年も倍舊之御愛顧を奉希上候 頓首 一月元旦 特許第壹五二〇四號 絞風■元 絹布染物一式 印附染物一式 清水染工場 武州熊谷町 上部は清水染工場の一部 右側は乾燥室と水洗場 水洗場は星川の水源なり」と記されています。
左側の写真は、手前に二階建ての木造家屋と奥に染工場が写っており、手前の空き地で、星川で洗った反物を天日干をしている様子が写っています。右側の写真は、大きな桶と男性が三人写っており、説明文にあるとおり水洗場と思われます。小屋の奥は木が生い茂っており、現在の星渓園の玉の池と思われます(清水染工場の位置はこちら)。

清水染工場は、明治22年、清水奥太郎が松山町より熊谷町鎌倉町に移転し、染色業を開業し、染色業の基礎を固めました。2代目平次は、大正2年に熊谷町町会議員に当選し、熊谷染色組合長として業界の発展に尽力しています。3代目好一は、文化町内に新工場を新設し、清水染工場として、業界のトップを占めるに至っています。昭和17年には熊谷市市議会議員に選出されています。清水家3代にわたる業界の推進指導により、熊谷の染色工業は「熊谷染め」として全国的に有名となり、地場産業としての価値を高めるに至りました。

絵葉書には、1906年(明治39)発行の、1銭5厘紫の「菊切手」が貼られ、消印は熊谷局の大正12年1月6日の消印が押されています。
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