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きかは便郵106 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介106回目。今回は「松本製粉第一工場」です。
以前、きかは便郵88で紹介したのが、「松本製粉第二工場」でしたが、今回は第一工場です。
松本製粉所は、安永元年(1772)、 松本重左衛門の二男源之丞が本町2丁目に糸繭商として店をかまえ、その後文化年代に穀物商を営むことに始まります。大正3年(1914) 松本米穀店と改称し、松本米穀製粉株式会社を設立。昭和5年(1930)、 名古屋製粉株式会社及び新田製粉株式会社を合併し、製粉部門を日東製粉株式会社と改称し、松本米穀肥料株式会社を設立しています。この松本製粉所は、松本米穀精麦株式会社として現在まで続く200年企業として、熊谷市内でも有数の老舗企業です。
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瓦葺の白壁の倉庫と木造二階建ての建物、板塀と門が写っています。手前には小川が流れており、橋が架けられています。板塀が一部開いており、交互に8段に積まれた袋が台車に積まれています。地面にはレールが左手前にカーブしながら敷かれていることから、この台車はトロッコで、製粉された商品を出荷するためのものと思われます。
写真右上には、和服を着た男性が写っています。明治39年経営困難であった熊谷製粉株式会社を引き受け、大正6年に松本米穀製粉株式会社に盛り立てた、松本平蔵(1849-1923)です。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前。
3.松本米穀製粉株式会社の設立は大正3年(1914)。
このことから、この写真は大正3年(1914)~大正7年(1918)の間に製作されたものと思われます。



きかは便郵105 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介105回目。今回は「桜雲閣」の観桜会です。
桜雲閣は、「きかは便郵7」でも紹介していますが、この建物は明治7年(1874)に「暢発(ちょうはつ)学校」という教員養成所として、高城神社境内に建てられたものです。明治12年に廃校となり、明治43年(1910)に現在の弥生町地内に移築されて「櫻雲閣」と名づけられました。高崎線の線路際にあり、当時線路を隔てた南側は熊谷堤があり、「櫻雲閣」という名はこれに由来しているものと推測されます。建物内部には、425畳敷の大広間と事務所、会議室、応接室、貴賓室が設けられており、明治39年(1906)に結成された桜の保勝会の事務所がここに置かれた他、熊谷唯一の公会堂として各種催事に利用されていました。
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桜雲閣の周りには紅白の幕が廻らされ、桜雲閣の3階からは2方向に提灯が下げられています。
写真右手には簡易的な舞台がつくられ、着物を着た女性が踊っています。小屋の上には、「一般観櫻會 水木連」と記された幕が掲げられています。舞台周りの囲いには「本舗 五家寶 熊谷本店 風間堂」「履物 熊谷本二 恩田商店」等の広告幕が提げられています。囲いの入口には、杭に「麦湯接待所」と書かれた紙が下げられています。
左手には舞台上に男性が座り、ピアノのようなものを演奏しており、多くの男女が見物しています。
当時のお花見の賑やかな様子がうかがえる貴重な写真です。
写真下には「熊谷櫻雲閣観櫻會光景 熊谷杉浦書店発行」と印字されています。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.桜雲閣の移設が、明治43年(1910)。
3.「櫻雲閣」の焼失が大正14年(1925)。
以上のことから、この絵葉書は、明治43年~大正14年の間に製作されたものと推測されます。

恩田履物店:市内本町2丁目履物の卸しと小売りを行う。明治6年開業。
風間堂菓子店:市内本町2丁目の菓子店。天保年間創業。明治期の店主風間浅五郎は、五家寶を改良し腐りにくくして夏季の販売に供した。


きかは便郵104 [きかは便郵]

熊谷地域の絵葉書紹介104回目。今回も昭和36年に刊行された、「くまがや」第二集(海外版)絵葉書集の紹介2回目、4枚中の2枚です。
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熊谷市指定文化財名勝「星渓園」です。写真左側には「名勝 星渓園」、写真下には「玉の池とも呼ばれ、元和9年(1623)荒川洪水のとき、桜堤が切れ、欠所ができ以来荒川の水がここに湧き出て泉をつくり、星川の水源となって市の中央を貫流する。緑と静粛の庭園として訪れる人が多い」「Seikeien,Typical Japanwse Garden in Kumagaya(1623)」と印字されています。
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熊谷寺です。写真下には「名勝 熊谷寺 旧熊谷館跡にあり、約700年の昔、関東武者の勇将熊谷直実公が武士をやめここに仏庵を結んだところで、この堂宇は大正4年に建てられた。高さ20mの総けや木造りで豪壮の建築で名高い。熊谷レポート7」「Kumagaya Temple(1190)」と印字されています。

包紙の内側には。「NAOZANE KUMAGAYA(1141-1208) NAOZANE KUMAGAYA,a well-knoun warrior of the Cenji Clan,found his life transient and unstable after Ge had killied ATSUMORI ,a young prince of the Heike hlan at the battle of ichinotani,became a pricest by the name of RENSHO at the age of 54 and founded a temple in Kumagaya , where he died on September 14,1208」と熊谷直実の説明が印刷されています。

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きかは便郵103 [きかは便郵]

熊谷地域の絵葉書紹介103回目。今回は、「くまがや」第二集(海外版)絵葉書集4枚中の2枚です。
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この絵葉書集は、昭和36年(1961)に発行されたものです。包紙の表紙には、渡辺崋山筆の「直実挙扇之図」(熊谷市指定文化財)が印刷されています。
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熊谷市指定文化財の「源宗寺の大仏」です。写真左側に「平戸の源宗寺にあり、薬師と観音の二体で高さ4mある。寛文2年(1662)に完成した。様々の病気にきききめがあるといわれ今も参拝の人が絶えない。熊谷リポート6」と印字されています。写真下には英語で「The Great Buddha Statue of Genso Temple at Hirato,Kumagaya」と印字されています。
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英泉の版画で木曽街道六十九次の中の熊谷宿です。写真左側に「版画 熊谷宿 江戸時代末期(1835)ごろの風景版画で、英泉と広重により完成した木曽街道六十九次の中の熊谷宿である。約130年前の交通のようすと風俗を知ることができる。熊谷レポート8」と印字されています。写真下には英語で「Old Kumagaya in 1835 (Wood block print by Eisen)」と印字されています。

この絵葉書の刊行にあたり日下部朝一郎氏が「県外にいかに沢山の名勝や観光地、温泉等があっても私たちの郷土は「熊谷」よりほかありません。そして郷土の良さを案外知らない点があると思います。(略)どうぞこのレポートを親しい友や、熊谷から遠くへ去った方々へ送ってください。なつかしいふるさとの山河はきっとその人を力づけるでしょう(以下略)」と記しています。

きかは便郵102 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介102回目。今回は、斎藤別当実盛です。
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烏帽子を被った眼光鋭い男性が描かれています。写真下には「63(日本百傑之内 斎藤実盛 SAITO.SANEMORI)」と印字されていいます。日本の歴史上の人物百人を選んでつくられた絵葉書と思われます。
斎藤別当実盛(1111-1183):平安時代末期に活躍した武士。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、木曽に送り届けたといいます。保元の乱、平治の乱では、源義朝につき活躍をしました。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となったようです。治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされます。
源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につきます。治承4年(1180)の富士川の戦いでは、「東国の案内者」として、東国武士について進言したといいます。寿永2年(1183)、篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃助けた木曽義仲軍に討たれます。黒髪に染めた実盛を見た義仲は、さめざめと泣いたと伝えられます。
通信欄は↓です。
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「キガハ郵便  東京九段つるや画房」と印字されています。

この葉書の製作年代ですが、
1.通信面上部に「きがは便郵」と印字されており、「きかは便郵」→「きがは便郵」と変更されたのは、昭和20年(1945)。
2.横書きで、右横書きから左横書きに変更されたのは一律ではありませんが、諸官庁の作成する文書形式のガイドライン『公用文作成の要領』:昭和26年(1951)国語審議会審議決定・昭和27年(1952):内閣官房長官依命通知では、「執務能率を増進する目的をもって、書類の書き方について(略)なるべく広い範囲にわたって左横書きとする」としています。
以上のことから、この絵葉書は、昭和20年代前半に製作されたものと推測されます。

きかは便郵101 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介101回目。今回は野原古墳より「踊る埴輪」とともに出土した「埴輪男子」です。
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両腕と首部分が石膏で復元されていますが、彩色は施されていません。
写真下には、「埴輪男子(埼玉県大里郡小原村発見)1/10 國學院大學考古学資料室所蔵(6-1)」と印字されています。
この埴輪は、昭和5年3月21日に、「踊る埴輪」とともに畑の開墾中に出土したもので、一時東京帝室博物館に送られましたが、なぜか返却され、国学院大学に所蔵されることとなりました。東京帝室博物館の目録には「男子武装埴輪土偶破損 1軀」と記録されています。
通信欄の切手を貼る枠内には「Postage 11/2Sen domestic 6Sen foreign」と印されており、国内1銭5厘、国外は6銭の切手を貼ることが記されています。
本埴輪は、平成14年に国学院大学のご配慮によりレプリカを作成し、現在熊谷市立江南文化財センターにて展示しています。
P1010562.jpgレプリカ

この絵葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.本埴輪が、熊谷市野原古墳から畑の開墾中に発見されたのが昭和5年3月21日
以上のことから、昭和5年から昭和8年の間に製作されたものと思われます。

きかは便郵100 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介100回目。今回は「踊る埴輪」です。
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石膏を入れて復元された「踊る埴輪」が1対写っています。
写真下には「踊る男女 武蔵国大里郡小原村発掘 3-乙」と印字されています。

この絵葉書の畳紙には「昭和五年十月十六日 埴輪特別展覧会絵葉書 乙 (五枚一組) 帝室博物館発行」と印字されています。
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「踊る埴輪」が、熊谷市野原古墳から畑の開墾中に発見されたのが昭和5年3月21日とされており、その後、一緒に出土した埴輪、勾玉、鉄鏃などと共に帝室博物館が購入し、半年後には一般公開が行われたことになります。「踊る埴輪」の写真を見ると、石膏で復元されてはいますが、着色はなされていません。この特別展覧会が、「踊る埴輪」の初めての一般公開であり、この絵葉書が「踊る埴輪」の絵葉書として最も古い写真と思われます。
他の4枚の絵葉書は「農夫の二人 上野国佐波郡■■村■■内出土」「奏楽の男 上野国佐波郡剛志村発掘」「高坏■圍 上野国佐波郡赤堀村今■発掘」「犬 常陸国筑波郡小野川村発掘 上野国佐波郡剛志村発掘」です。

「踊る埴輪」は、平成12年度に東京国立博物館のご配慮によりレプリカを作成し、現在熊谷市立江南文化財センターにて公開しています。その時のレプリカ作成の様子はこちらで公開していますのでご覧ください。
↓はその時作成したレプリカと実物を並べて撮影したものです。
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参考:水口由紀子「いわゆる「踊る埴輪」の戦前の絵葉書から」『埼玉県立史跡の博物館紀要』第8号 2014

きかは便郵99 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介99回目。今回は、「熊谷町全景」です。
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手前には桜並木が写っており、荒川土手から撮影したものと思われます。荒川土手から道を隔てて、平屋瓦葺の長大な建物が位置しています。町中は、見渡す限り瓦葺の屋根が密集しており、白壁の土蔵も写っています。写真中央やや左手奥には、瓦葺の三角屋根が写っており、熊谷寺本堂と思われます。
写真下には、「熊谷名所 熊谷町全景 其一」と印字されています。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2は、大正7年(1918)3月1日以降
以上のことから、この絵葉書は、大正7年(1918)~昭和8年(1933)の間に製作されたものと推測されます。

また昨日、本ブログの総閲覧者数が700,000人を超えました。今後ともよろしくお願いします。

きかは便郵98 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、98回目。今回は市内須賀広地内に所在する「大沼遊園地」です。大沼は、農業用ため池で、慶長年間(1596-1615)に造られ、昭和7年の大改修により公園化されました。
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以前きかは便郵10で2枚の大沼公園の写真を紹介しましたが、今回は別角度で撮影されたものです。
大沼中央の弁天島に渡る橋の中央には、旗の付けられた長い棒が立てられています。玉石できれいに護岸された弁天島には鳥居と大きな松があり、池には2人の男性が乗った手漕ぎボートが一艘写っています。
写真下には「熊谷市外大沼遊園地」と印字されています。

この葉書の製作年代ですが、
1.大沼が公園化されたのは昭和7年(1932)。
2.通信面上部に「きがは便郵」と印字されており、「きかは便郵」→「きがは便郵」と変更されたのは、昭和20年(1945)。
3.横書きで、右横書きから左横書きに変更されたのは一律ではありませんが、諸官庁の作成する文書形式のガイドライン『公用文作成の要領』:昭和26年(1951)国語審議会審議決定・昭和27年(1952):内閣官房長官依命通知では、「執務能率を増進する目的をもって、書類の書き方について(略)なるべく広い範囲にわたって左横書きとする」としています。
以上のことから、この絵葉書は、昭和20年代前半に製作されたものと推測されます。

きかは便郵97 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介97回目。今回は、「荒川大橋」です。
荒川大橋については、以前「きかは便郵2」「きかは便郵33」「きかは便郵44」「きかは便郵59」「きかは便郵64」でも紹介しています。
今回の写真は、大正14年(1925)に完成した全長509mの鋼鉄製の「九連トラス橋」です。
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写真右手には、残念ながら判読できませんが、注意と書かれた立札が立てかけられています。橋の対岸からはバスのような大型の自動車が走ってきています。橋の手前左側には自転車を押す男性が、右側にはしゃがみこんだ下駄ばきの女性が写っています。
写真右下には、「熊谷市荒川大橋」と印字されています。
↓こちらは別の絵葉書で、荒川大橋を正面から写した写真です。
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左側に立札が建てられていないことから、上の写真より前に写された、竣工まもないころの写真と思われます。写真下には「(熊谷名所) 荒川大橋」と印字されています。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)2月15日以前の書き方
2.「九連トラス橋」の完成は、大正14年(1925)。
3.宛名面通信文記載範囲が1/2は、大正7年(1918)3月1日以降
以上のことから、この絵葉書は、大正14年(1925)~昭和8年(1933)の間に製作されたものと推測されます。

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