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きかは便郵86 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、86回目。今回も「片倉熊谷製糸所」です。
上の写真は、校舎の前に造られた庭園です。写真右手の大きな石の上には二宮金次郎の像が、左手には男性の胸像が設置されています。左手前には花崗岩製と思われる雪見灯篭が置かれています。
写真中央には、「片倉イ熊谷製糸所」と印字されています。
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下の写真は、講堂の内部と思われます。高い天井からはアンティークなペンダントライトが吊り下げられています。講堂には7列の長机・長椅子が並べられており、正面には「忠 孝」と書かれた掛け軸が下がっています。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2になっていることから、大正7年(1918)以降。
3.片倉組が三木原製糸所を買収したのが明治40年(1907)。
以上のことから、この絵葉書は、大正7年から昭和8年の間に製作されたものと推測されます。

きかは便郵85 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、85回目。今回も「片倉熊谷製糸所」です。
上の写真は、教室内の授業風景です。教壇に男性教師が立ち、2人用の長机で、4人13列に並んだ女学生が姿勢を正して話を聞いている風景が写っています。教卓の上には生け花活けられています。
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下の写真は、木造2階建ての校舎の脇に談笑する女生徒が写っています。手前の女生徒は地面に何か書いており、それを周りの女生徒が覗き込んでいます。休み時間の風景と思われます。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2になっていることから、大正7年(1918)以降。
3.片倉組が三木原製糸所を買収したのが明治40年(1907)。
以上のことから、この絵葉書は、大正7年から昭和8年の間に製作されたものと推測されます。


きかは便郵84 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、84回目。今回も「片倉熊谷製糸所」です。
上下2枚に、製糸所内部の様子が写っています。
細長い工場内は、明かりとりの天窓があり、梁の見える天井から電球が下がっています。床は木製で、割烹着を着た女性が作業している様子が写っています。
写真中央には「片倉イ熊谷製糸所」と印字されています。
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上の写真は、繰糸された生糸が糸枠に固着しないように、乾燥させるために小枠から大枠に巻きなおす揚返しと呼ばれる工程と思われます。
下の写真は、自動繰糸機で、繭を湯につけ、繭から出た糸口を何粒分か合わせて撚りをかけて1本の生糸にし小枠に巻いて生糸する工程と思われます。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2になっていることから、大正7年(1918)以降。
3.片倉組が三木原製糸所を買収したのが明治40年(1907)。
以上のことから、この絵葉書は、大正7年から昭和8年の間に製作されたものと推測されます。

きかは便郵83 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、83回目。今回も「片倉熊谷製糸所」です。
上下2枚に横長の写真が配置されています。
上の写真は、私立片倉熊谷青年学校の校庭です。奥がバレーコート、中央がバスケットコート、手前がテニスコートになっており、割烹着を着た女生徒が運動する様子が写っています。写真左手には、鉄棒にぶら下がる女性徒も写っています。写真中央奥には、製糸所の大きな煙突位置しています。
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写真中央には「片倉イ熊谷製糸所」と印字されています。
下の写真は、「片倉熊谷製糸所」の遠景写真です。手前は熊谷市街地、奥は屋敷林の点在する田園風景が広がっています。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2になっていることから、大正7年(1918)以降。
3.片倉組が三木原製糸所を買収したのが明治40年(1907)。
以上のことから、この絵葉書は、大正7年から昭和8年の間に製作されたものと推測されます。

きかは便郵82 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、82回目。今回は「片倉熊谷製糸所」です。
写真左手には、製糸所の大きな煙突があり、正面には瓦葺の木造2階建ての建物が写っています。右手上には合成で、「私立片倉熊谷青年学校」と記された日章旗が写っています。
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片倉熊谷工場の中に設置されていた私立学校の熊谷青年学校の校舎の写真と思われます。
片倉熊谷工場は、地元有志によって設立された三木原製糸所を、明治40年(1907)に片倉組が買収し、石原製糸所として操業を開始したものです。総面積34,197㎡の規模で、学校、寮、社宅、プール、バレーコート、診療所などの施設がつくられていました。この熊谷青年学校は、働きながら料理・編み物・生け花などを学ぶ学校で、毎年3月に熊谷製糸所の行事として入学式と卒業式が行われていました。

この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面上部の「きかは便郵」は、昭和8年(1933)年2月15日以前の書き方
2.宛名面通信文記載範囲が1/2になっていることから、大正7年(1918)以降。
3.片倉組が三木原製糸所を買収したのが明治40年(1907)。
以上のことから、この絵葉書は、大正7年から昭和8年の間に製作されたものと推測されます。

きかは便郵81 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介81回目。今回は、「片倉組熊谷堤観櫻会」です。
桜が満開となっている熊谷堤には、大勢の正装した老若男女が写っており、「片倉組観櫻会」と書かれた幟幡が掲げられています。また、堤の上には、桜並木に沿って木製の電柱が建てられています。
片倉組熊谷工場では、毎年4月に観桜会の行事が行われており、この絵葉書はその時の様子を写したものです。
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片倉組は、明治6年に長野県諏訪郡川岸村(現在の岡谷市川岸)で片倉市助が10人取りの座繰り製糸を開始したことに始まる製糸会社で、大正9年に片倉組を継承する組織として片倉製糸紡績株式会社を設立しました。昭和14年には、旧官営富岡製糸場(株式会社富岡製糸所)を合併し、昭和18年に片倉工業株式会社に改称しています。昭和62年には富岡工場(旧官営富岡製糸場)を休止し、平成6年には、最後の製糸工場であった熊谷工場を休止し、蚕糸業121年の幕を閉じました。
↓は宛名面です。
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この葉書の製作年代ですが、
1.宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前
2.片倉製糸紡績株式会社が熊谷町三木原製糸所を買収したのは明治40年で、片倉熊谷工場(石原製糸所)として開業したのは明治45年
3.片倉組は大正9年に片倉製糸紡績株式会社に継承
以上のことから、この絵葉書は、明治45年から大正7年の間に作成されたものと推測されます。

きかは便郵80 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介、80回目。今回は本町一丁目に所在した「近亀時計店内部」です。
以前きかは便郵24で、熊谷本町通りの写真を紹介した際、左端にこの近亀時計店の外観が少し写っていましたが、今回は、その内部です。写真下には「仲仙道熊ヶ谷町 近亀時計店内部」と印字されています。
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店の中には、柱時計、目覚時計、蓄音機が所狭しと並べられています。店の奥には、店主と思われる男性が椅子に腰かけており、手前には、お客の対応をする2名の丁稚奉公人と思われる男性店員が写っています。店員の一人は大きな算盤を、もう一人は商品の懐中時計を手にしており、商談中と思われます。
店内には額が掲げられており、「金銀時計付属品」と書かれています。
この写真は、柱時計の針が5時25分を指していることから、夕方に撮影されたものと判断できます。
大正6年年刊行の『熊谷大観』には、「時計貴金属商 近亀時計店 何でも無いものはない」との広告が掲載されています。
↓は宛名面です。
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この葉書の製作年代ですが、宛名面通信文記載範囲が1/3になっていることから、明治40年(1907)以降で、宛名面通信文記載範囲が1/2になった大正7年(1918)以前につくられたものと推測されます。
明治から大正期にかけての時計店内部を記録した貴重な写真です。

きかは便郵79 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介79回目。今回も、埼玉県立熊谷高等学校です。
60周年記念事業として、竣工落成した、体育館兼講堂(253.9坪)です。
写真下には「熊高体育館兼講堂(竣工昭和30年9月)」と印字されています。
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体育館兼講堂の内部です。正面の舞台には、左右・正面に階段が設置されており、鉄骨が剥き出しになっている天井には、蛍光灯とバスケットゴール板が吊り下げられています。写真右手の壁際には、鉄棒と思われる器具が設置されています。
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きかは便郵78 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介78回目。今回は、昭和30年に創立60周年を迎えたことを記念として発行された埼玉県立熊谷高等学校の3枚組の絵葉書です。
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包紙には、「創立六十周年記念 埼玉県熊谷高等学校」と印字され、校舎、学生服、教室、太鼓などのイラストが描かれています。
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校舎は、きかは便郵65で紹介した昭和12年に落成記念で発行した絵葉書の写真に写る校舎が別角度で写されています。熊谷の中心市街地から離れて立地することから、熊谷空襲の戦火を免れていました。赤い瓦が葺かれていたことから通称名「赤甍(あかいらか=赤い瓦)校舎」と呼ばれていましたが、昭和53年西半分が焼失し、昭和55年に新校舎が竣工しています。

きかは便郵77 [きかは便郵]

熊谷地域の昔の絵葉書紹介77回目。今回は「熊谷郵便局電話分室」です。
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この「熊谷郵便局電話分室」は、昭和11年に竣工したコンクリート2階建ての建物で、入口脇にはレトロな街路灯が1本建てられています。
現在の国道17号線と市役所通りが交わる交差点の南西に建てられていましたが、昭和20年の熊谷空襲で焼失しています。
熊谷郵便局は、明治5年(1872)に熊谷郵便取扱所として開設され、明治6年(1873)に熊谷郵便役所となり、明治8年(1875)に熊谷郵便局(二等)となり、翌日より為替取扱を開始しています。

外観がきれいなことから、昭和11年に建てられて間もない頃に撮影されたと思われます。

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