伝承遊びを伝える会著『囲碁』と国宝「歓喜院聖天堂」「琴棋書画」 [建造物]
伝承遊びを伝える会著『囲碁』
国宝「歓喜院聖天堂」拝殿正面の「琴棋書画」
伝承遊びを伝える会著『囲碁』が刊行されました。
熊谷市妻沼の国宝「歓喜院聖天堂」にある彫刻「琴棋書画」などを紹介し、
囲碁の歴史を分かりやすく紹介しているガイドブックです。
画像の提供と説明内容の監修を行いました。
「琴棋書画」は、琴と碁と書と画を意味し、昔、現在の中国においてこれを四芸と称し、士君子の余技や風流人の嗜みとして尊ばれました。画題として好んで描かれ、日本でも襖絵、屏風絵などに多く描かれています。聖天堂では拝殿正面破風の下部にこの題材の彫刻が置かれています。
伝承遊びを伝える会著『囲碁』 概要
内容(「BOOK」データベースより)
伝承遊びのひとつである「囲碁」について、興味をもつきっかけになる本です。囲碁が長く愛されたのはなぜか、歴史上の偉人たちの将棋とのかかわりや、現在活躍中の棋士の囲碁への思いを知り、囲碁の魅力を探っていきます。テレビなどメディアで見る囲碁の世界や、さまざまな道具を見ることで、囲碁文化の多様性を感じることができるでしょう。囲碁で実際に遊ぶためのルールを学びます。囲碁のルールをもとに作ったクイズは、パズルのように楽しめます。中国で生まれた囲碁の歴史、日本に伝わった背景や、世界中に広まっている現状、さらに近年のインターネットやAIとのかかわりを知ることで、囲碁文化の奥深さを感じることができるでしょう。囲碁にまつわる豆知識を奇数ページに散らしています。実際に囲碁をしなくても楽しめる内容が満載です。
著者:伝承遊びを伝える会
取材先:日本棋院、一力遼竜星、仲邑菫棋士、川越igoまち俱楽部、囲碁サロン「天元」などの取材・撮影等
登録情報
大型本: 31ページ
出版社: 文溪堂 (2020/3/19)
言語: 日本語
ISBN-10: 4799903691
ISBN-13: 978-4799903698
発売日: 2020/3/19
梱包サイズ: 20 x 18 x 0.8 cm
熊谷西小学校からの埋蔵文化財等の搬出について [その他]
両宜塾 [その他]
市内妻沼、歓喜院聖天堂にほど近い住宅街のなかに「両宜塾跡碑」があります。
両宜塾は、江戸時代の儒学者、寺門静軒が万延元年(1860)に開いた塾です。塾の名は、「私はこの家を得て宜しく老い、学ぶものは私を得て宜しく学ぶべし」との静軒の言葉が由来とされています。
慶応3(1867)年、静軒が妻沼を去った後も門人たちによって引き継がれ、明治5(1872)年まで続けられました。その後、老朽化に伴い建物は取り壊され、平成5(1993)年に跡地前に石碑が建てられました。
両宜塾からは多くの著名人が排出され、日本女医第一号の荻野吟子もそのうちの一人です。
静軒は、奈良村の吉田市右衛門家や鎌倉町の石上寺、大里の根岸家に身を寄せるなど、熊谷の偉人たちとも深い関わりがありました。
両宜塾は、江戸時代の儒学者、寺門静軒が万延元年(1860)に開いた塾です。塾の名は、「私はこの家を得て宜しく老い、学ぶものは私を得て宜しく学ぶべし」との静軒の言葉が由来とされています。
慶応3(1867)年、静軒が妻沼を去った後も門人たちによって引き継がれ、明治5(1872)年まで続けられました。その後、老朽化に伴い建物は取り壊され、平成5(1993)年に跡地前に石碑が建てられました。
両宜塾からは多くの著名人が排出され、日本女医第一号の荻野吟子もそのうちの一人です。
静軒は、奈良村の吉田市右衛門家や鎌倉町の石上寺、大里の根岸家に身を寄せるなど、熊谷の偉人たちとも深い関わりがありました。
備前渠用水路 [その他]
以前、当ブログでも取り上げた伊奈備前守忠次。市内には、中条堤のほかにも、忠次の業績の跡が今でも残されています。
「備前堀」の愛称で親しまれる備前渠用水路は、慶長9(1604)年に忠次が江戸幕府の命により開削した、県内最古の大規模な用水路です。
市内八木田、備前渠用水沿いにある備前堀再興記碑。
備前渠用水は、天明3(1783)年の浅間山の大噴火により、岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がり、度々洪水となり妻沼地域では使用不能となりました。これを幕府に願い出て再興したことを記念して天保4(1833)年に建立したのが本碑です。
再興には、吉田市右衛門宗敏が、備前渠用水の復興のために奔走し、金200両の大金を寄付しており、碑文には吉田市右衛門宗敏への感謝の内容が江戸の名石工「窪 世祥」により刻まれています。
吉田市右衛門宗敏は、代々下奈良村の名主をつとめた吉田家の3代目で、貧しい人々に育児費を支給したり、洪水による水害へ物資を援助したりしました。その善行は幕府や忍藩からもしばしば讃えられ、近隣の村々などからも多くの尊敬を集めました。
下奈良の集福寺には、吉田市右衛門の墓があり県指定旧跡となっています。
「備前堀」の愛称で親しまれる備前渠用水路は、慶長9(1604)年に忠次が江戸幕府の命により開削した、県内最古の大規模な用水路です。
市内八木田、備前渠用水沿いにある備前堀再興記碑。
備前渠用水は、天明3(1783)年の浅間山の大噴火により、岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がり、度々洪水となり妻沼地域では使用不能となりました。これを幕府に願い出て再興したことを記念して天保4(1833)年に建立したのが本碑です。
再興には、吉田市右衛門宗敏が、備前渠用水の復興のために奔走し、金200両の大金を寄付しており、碑文には吉田市右衛門宗敏への感謝の内容が江戸の名石工「窪 世祥」により刻まれています。
吉田市右衛門宗敏は、代々下奈良村の名主をつとめた吉田家の3代目で、貧しい人々に育児費を支給したり、洪水による水害へ物資を援助したりしました。その善行は幕府や忍藩からもしばしば讃えられ、近隣の村々などからも多くの尊敬を集めました。
下奈良の集福寺には、吉田市右衛門の墓があり県指定旧跡となっています。
熊谷の名工 林兵庫 [熊谷の名工]
近世近代期の熊谷市の大工棟梁や彫刻師の手掛けた建物や彫刻を紹介してきましたが、まだまだ、名工と呼ぶべき人々がおります。その一人は林兵庫正清といい、妻沼に拠点を置いた大工棟梁林家の人物で幕府の作事方大棟梁の平内家とも関係が深いとされます。日光東照宮をはじめ幕府主導の建築物に関与しています。また、林家に連なる大工棟梁には三ヶ尻の内田清八もおり、市内の寺社建築を手掛けています。
妻沼といえば国宝建築となっている『妻沼聖天堂』がその代表的な作品です。建築は林兵庫正清と子息正信が主導し、彫刻は石原常八をはじめとする飯田家、小林家らの一門の彫刻師らが技を競っています。彩色は狩野派の絵師によるものです。林家はプロデューサーとして全体計画と各職人たち管理し指示しています。その後も林家をはじめ門弟たちや彫刻師らはチームを組むかのように三峯神社本殿・拝殿(秩父市)や箭弓神社本殿・拝殿(東松山市)、八宮神社本殿(比企郡小川町)などの建築や装飾彫刻の製作に加わっています。名工達の技の冴えを鑑賞するのも良いかと思います。参考図書は次のような書籍があります。
三峯神社本殿・拝殿(秩父市)
熊谷市2016『熊谷市史 別編2 妻沼聖天山の彫刻」
若林 純2011『妻沼聖天山 歓喜院聖天堂―彫刻と彩色の美-」平凡社刊
阿部修治2011『甦る「聖天山本殿」と上州彫刻師たちの足跡」さきたま出版会