両宜塾 [その他]
市内妻沼、歓喜院聖天堂にほど近い住宅街のなかに「両宜塾跡碑」があります。
両宜塾は、江戸時代の儒学者、寺門静軒が万延元年(1860)に開いた塾です。塾の名は、「私はこの家を得て宜しく老い、学ぶものは私を得て宜しく学ぶべし」との静軒の言葉が由来とされています。
慶応3(1867)年、静軒が妻沼を去った後も門人たちによって引き継がれ、明治5(1872)年まで続けられました。その後、老朽化に伴い建物は取り壊され、平成5(1993)年に跡地前に石碑が建てられました。
両宜塾からは多くの著名人が排出され、日本女医第一号の荻野吟子もそのうちの一人です。
静軒は、奈良村の吉田市右衛門家や鎌倉町の石上寺、大里の根岸家に身を寄せるなど、熊谷の偉人たちとも深い関わりがありました。
両宜塾は、江戸時代の儒学者、寺門静軒が万延元年(1860)に開いた塾です。塾の名は、「私はこの家を得て宜しく老い、学ぶものは私を得て宜しく学ぶべし」との静軒の言葉が由来とされています。
慶応3(1867)年、静軒が妻沼を去った後も門人たちによって引き継がれ、明治5(1872)年まで続けられました。その後、老朽化に伴い建物は取り壊され、平成5(1993)年に跡地前に石碑が建てられました。
両宜塾からは多くの著名人が排出され、日本女医第一号の荻野吟子もそのうちの一人です。
静軒は、奈良村の吉田市右衛門家や鎌倉町の石上寺、大里の根岸家に身を寄せるなど、熊谷の偉人たちとも深い関わりがありました。