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山王霊神碑 [近世]

市内四方寺に建てられている山王霊神碑を紹介します。
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碑表には「山王霊神 不朽堂」、碑影には造立の趣旨と「天保八年丁酉十月 吉田宗孝復興建 窪世昌錐」と刻まれています。天保8年(1837)に吉田宗孝により建てられたもので、石工は江戸の名工窪世祥です。石材は根府川石(安山岩)。
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吉田宗孝は、四方寺で代々名主を務めた吉田六左衛門家13代目で、「不朽堂」はその雅号です。
山王とは、滋賀県大津市の日吉大社を本社とする信仰で、その起源は、近江の比叡山一帯に古くからあった山岳信仰とされます。わかりやすく言うと「山の神」で、猿がその神使いとされています。
平安時代に最澄が比叡山延暦寺を建立し、一帯で古くから信仰されていた神々を延暦寺の鎮護神・護法神として尊重して「山王」と呼びました。祭神ははじめオホヤマクヒで、後にオホモノヌシが加わりました。オホヤマクヒは、古事記の系譜ではスサノヲの孫にあたります。鎌倉時代になると天台宗の教学と日吉の神への信仰を結合した「山王神道」が確立し、やがて伊勢神道の影響を受け天照大神と日吉の神を同一とする主張が現れ隆盛しました。明治期になると、神仏分離により、延暦寺と日吉大社の神は分離され、山王権現の社号も禁じられ、日吉神社または日枝神社と改称されました。
また、渡来系氏族の秦氏に残る古文などの伝説には、 「山王が丹塗の鏑矢に化身して川を流れ下って、 川遊びをしていた賀茂玉依姫(下賀茂神社の祭神)を懐妊させ、子をもうけた」とあります。 このような伝説に因んで、山王系神社(日吉・日枝・山王神社など)に置かれている一対のサル像は、 夫婦猿とされ、片方が子猿を抱く像も多くみられます。また、民間信仰では、山王系の小社祠に神使とされるサルが祀られ、「山王さん」と呼ばれて、子宝・安産・厄除けの祈願の対象とされました

窪世祥:生没年不詳の江戸後期の石工で、「中慶雲」「広瀬群鶴(1750-1809)」とともに、江戸の3大名石工と言われています。「窪 世祥」が刻んだ石造物の年号は、文化元年(1804)~安政元年(1855)の51年間です。中村仏庵(書家:1751-1834)・酒井抱一(画家・俳人:1761-1829)・亀田鵬斎(書家:1752-1826)等の文人と親交があった。

供養塔(愚禅書) [近世]

愚禅書の石造物紹介3回目。今回は、久下の権八地蔵のお堂脇に建てられている愚禅書の供養塔を紹介します。
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碑面には、「奉納 西国 坂東 神社 四国 秩父 仏閣 供養塔 九十翁愚禅」と刻まれています。造立は、天保11年(1840)。
この他市内には、愚禅和尚の書による石碑は、広瀬地内の馬頭観音久下地内の馬頭観音等があります。
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愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。

鵬斎書庚申塔 [近世]

市内葛和田の大龍寺不動堂前に建てられている亀田鵬斎書の庚申塔を紹介します。
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亀田鵬斎書で、寛政12年(1800)3月建立。本碑は道標を兼ねており、右側面には「東 ぎやうだ わたしば 道」、左側面には「南 くまがや 西 めぬま ほんじょう」と刻まれています。
鵬斎の書は、1812年以降の書が「フライング・ダンス」と形容される独特な字体となりますが、本碑はまだ踊る前の字体です。
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亀田鵬斎(1752-1826)は、江戸時代後期の儒学者・書家・文人で、「寛政異学の禁」により、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失っています。
その後、各地を流浪し、60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って鵬斎の書を求めました。
鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容され、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られています。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳も残されています。
また、鵬斎は心の優しい人柄でも知られ、天明3年の浅間山大噴火による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたり、赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てたり、定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っています。

野口雪江奉納両聯 [近世]

熊谷出身で、寛政の3名筆の一人と称される野口雪江が、寛政9年に浅草の浅草寺に奉納した両聯(りょうれん:細長い札)を紹介します。
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RIMG3644-2.jpg「十方来人皆対面」
RIMG3647-2.jpg「仏身円満無背相」
浅草寺本堂内の外陣に掲げられているもので、般若讃の中の語句を書いたものです。
浅草寺にお参りに行った際にはぜひご覧ください。

野口雪江(1732-1799):享保17年12月7日熊谷(母方の下奈良の栗原家)に生まれ、名は秀航。父は大善院七世秀猷、母は奈良村の栗原氏。若くして金峰山に入り修験道を修行し、護法を修め、鎌倉町の熊谷総鎮守愛宕神社の祠官をつとめた。若いころより学問にはげみ、17歳で肥塚の東有隣から経史を学び、18歳の頃江戸に出て、当時名声のあった書家の関思恭に入門し、書道を研鑽した。
性質謙譲、博識で書道に秀で、寛政9年、弟子の勧めにより東京浅草の浅草寺に「仏身円満無背相」「十方来人皆対面」なる般若讃の中の語句を書いた両聯を奉納し、世の書家から「寛政の三名筆」としてたたえられた。
また、俳諧・書道に後進の育成に当たり、宿役人であった竹井新右衛門、石川清左衛門、石川藤四郎らも雪江の教えを受けた。そして、江戸後期の熊谷宿の有識者として、俳諧の師建部涼袋や儒医の三浦無窮をはじめ、多くの文人墨客たちと交わり、幅広い文化活動を推進した。

光運和尚碑(石橋供養塔) [近世]

市内柿沼の龍昌寺境内に建てられている光運和尚碑(石橋供養塔)を紹介します。
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光運和尚(1791-1859)は、龍昌寺の16世。埼玉郡若小玉村(現行田市)生まれ。9歳の時に龍昌寺16世に就いて剃髪、学を修め、23歳の時大里郡御正村浄安寺、37歳の時龍昌寺に移ります。この間密法に精修し布教の傍ら、村人に読書習字を教え、倹約をして田畝一町、山林一町六段を購い寺産となし、備金200両を営繕費に充てています。
光運和尚の没後、明治16年に村人が相謀って、光運和尚の遺金をもって村内に石橋3か所を架し、これを光運橋と称しました。明治19年11月に光運和尚の事跡を惜しんだ邑長及び門人が、石橋供養塔(本碑)を建立しています。
篆額:学斉林昇、撰・書:法類真光寺住職沙門光賢。

学斉林昇(林學齋)(1801-1859):江戸の儒学者。名は昇、字は平仲、号を学斎と称し、林復斎の子で林家の家学を継承。安政6年大学頭を継ぎ、従五位に叙された。明治7年司法省明法権大属となり、明治21年日光東照宮主典を務め、明治33年退官。東京に住んだが火災にあい、林家の採地であった市内柿沼の四分一兵衛に迎えられ、離れを隠居所とし、付近の子弟に学問や書を教えた。

久下の馬頭観音(愚禅書) [近世]

以前広瀬の愚禅書の馬頭観音を紹介しましたが、今回は、久下の一里塚跡の脇の土手に建てられている愚禅書の馬頭観音です。
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天保12年(1841)二月に講中により造立されたもの。左側面に「前大乗愚禅翁■」、台座には講中13名の名前が刻まれています。熊谷、鴻巣への道標を兼ねています。
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愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。

箱田石橋供養塔 [近世]

市内箱田地内の成田用水支線脇に設置されている石橋供養塔を紹介します。
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この供養塔は、斉藤蔵之助利勝(1844-1900)が、私財を投じて成田用水及びその支線の土橋33か所を石橋に架け替え、その功績により、明治14年埼玉県より銀杯2個を賜った事を記念して建てられてものです。
碑文正面には「共有石橋三十有所供養塔」、側面には「明治一四年第六月架設大願成就 埼玉県庁許可賜賞銀杯二個 濫觴結議 十六年第九月建之 寄附主箱田村住斉藤蔵之助利勝 斉藤孝戔昌勝 戸長斉藤太郎兵衛 筆生岩田善之丞 世話人巌田若助 金子善吉 斉藤周一郎 孝戔孫仁子拝書」と刻まれています。
RIMG3595.jpg斉藤蔵之助の名前が刻まれている。

斉藤蔵之助利勝(さいとうくらのすけとしかつ)弘化元年(1844)-明治33年(1900)。石坂兼松が市内箱田の斉藤家に入婿し、二代目蔵之助を襲名。公益の念厚く、地内の悪路、橋梁の破損多く交通の不便を憂い、多額の私財を投じて成田用水及びその支線の土橋33か所を石橋に架け替えた。その功績により明治14年埼玉県より銀杯2個を賜っている。

小江川聖観寺跡 [近世]

緩やかな丘陵と、谷合の斜面に並ぶ家々の風景が良く残る市内小江川の地には、かつて「聖観寺」と称する寺院がありました。
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小江川の地名は、古くは鎌倉時代末期の嘉永四年(1306)の天皇家の御領目録のなかに「武蔵大江」(ムサシオオエ)と記載され、また、室町時代の正平七年(1352)の足利尊氏が家臣に与えた領地を記した袖判下文に「小江郷」と記載されており、小江川の地を指していると考えられています。
聖観寺の開基は不明ですが、江戸時代の文化・文政期(1804~1829)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「聖観寺 天台宗今市村高蔵寺末小久保山大悲院ト號ス 本尊観音ヲ安ス」と記されています。
明治期の廃仏毀釈により廃寺となったこの寺院は、現在、その存在を示すものとして、天和・元禄期(1681~1704)にかけて造立された僧侶の墓塔の無縫塔や庚申塔・日待供養塔が数基、東向きの平場に残されています。無縫塔には、「元禄十七甲申年 権大僧都法印永海 和尚位 正月十二日」と刻まれています。
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地元小江川自治会では、往時を偲び、「小江川千本桜」事業の一環としてこの地を整備し、桜を植樹しています。

埼玉県指定旧跡「吉田市右衛門墓」 [近世]

市内奈良の集福寺に所在する埼玉県指定旧跡「吉田市右衛門墓」の中の吉田宗敬(1739-1813:2代目)の墓を紹介します。
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墓石には、「徳翁宗淳居士墓」と戒名が刻まれ、周囲を双龍、青海波文の中に岩島の装飾が施されています。
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墓石の後ろには、文政2年(1819)宗敬の7回忌に際し、子の吉田宗敏((1783-1844:3代目)が宗敬の業績を記した碑が建てられています。撰:成島司直 書并篆額:賜布狩衣・男谷思考。 石工は、江戸の名工「窪世祥」。
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成島司直(1778-1862):江戸後期の幕府奥儒者。号は東岳。 文化6年より「徳川実紀」の編修を担当し、天保12年諸大夫図書頭、天保14年理由は不明であるが免職謹慎となった。著作に「東の春」「改正三河後風土記」「琉球録話」など。
男谷思考(1777-1840):江戸時代後期の儒者。寛政12年表右筆となる。「寛政重修諸家譜」「藩翰続譜」の編修、韓聘書簡の写字などにあたる。文化10年から代官として信濃、越後に赴任。のち小十人頭を務めた。

中曽根橋石橋供養塔 [近世]

市内中曽根の、通殿川に架かる中曽根橋右岸に建てられている石橋供養塔を紹介します。
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寛政10年(1798)9月建立。正面に「馬頭観音」の文字を刻み、石橋供養と馬頭観音を兼ねているものです。右側面に、中曽根村 施主名と世話人名、左側面には近隣26村名が刻まれています。
RIMG1511burogu.jpg左側面

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