曰くありそうな玉石 山王様の子宝石? 力石? [近世]
広瀬の熊谷運動公園の南側に、国指定史跡「宮塚古墳」が所在しています。上円下方墳という座布団の上にお供え餅を置いたかのような形をしています。広瀬古墳群中の一古墳ですが今の季節は水田中に浮かぶ小島のようです。
広瀬古墳群は他にもいくつか古墳が残っていますが、古墳上に「山王社」を祀った円墳が近くにあります。子授け、安産祈願の信仰が篤く、奉納された多くの小絵馬が知られています。この塚のふもとに、鳥居の脇になりますが風格を感じさせる一抱えもある卵型の石がコロンとしています。荒川の転石だったのでしょうが、山王社の場所と合わせ産育にかかる依代など信仰に関係したものと思います。以前、中条でみたような「力石」であったかもしれません。見た限りでは刻銘などは無いようですが、100㎏近くありそうです。
参考:平井加余子1993「子授け、安産祈願」『熊谷の絵馬』立正大学北埼玉地域研究センター
広瀬古墳群は他にもいくつか古墳が残っていますが、古墳上に「山王社」を祀った円墳が近くにあります。子授け、安産祈願の信仰が篤く、奉納された多くの小絵馬が知られています。この塚のふもとに、鳥居の脇になりますが風格を感じさせる一抱えもある卵型の石がコロンとしています。荒川の転石だったのでしょうが、山王社の場所と合わせ産育にかかる依代など信仰に関係したものと思います。以前、中条でみたような「力石」であったかもしれません。見た限りでは刻銘などは無いようですが、100㎏近くありそうです。
上面 | |
横面 | |
山王社の修理碑 | 曰くありそうな「玉石」手帳の縦長約16㎝ |
参考:平井加余子1993「子授け、安産祈願」『熊谷の絵馬』立正大学北埼玉地域研究センター
聖天山の力石 [近世]
前回、本編で中条中島明神社の力石を取り上げましたが(6月8日掲載)、聖天山にも力石があるので紹介します。大師堂の傍らの茂みに2個のやや扁平な卵形石で並んで据え置かれています。それぞれ60cmから70cm近い大石で、片面に銘文が彫られています。右側は「三十八貫(約143㎏)」とあり、左側は「五ッノ内 四十二貫(約158㎏) 勝□□. コジマ 十平. 佐太郎. □□□. 玄太郎. 藤太郎. 庄蔵. 七蔵」と人名まで記されています。この石を持ち上げることのできた猛者である妻沼の小島地区の7名が奉納したと思われます。人名から明治期のものでしょう。聖天山には土俵があり、かつては奉納相撲も行われたようです。
※江戸時代の1貫は3.75kgに当たる。
左34貫(127.5㎏)、右38貫(142.5㎏)
※江戸時代の1貫は3.75kgに当たる。
左34貫(127.5㎏)、右38貫(142.5㎏)
力石 [近世]
上中条の中島明神社の境内に一抱えもある卵形をした石が二個ほどあります(写真1)。半分ほど地中に埋もれているところを見ると長い間この状態のまま放置されているようです。普通の石ではなく何かいわくがありそうです。この石については聞き漏らしてしまったのではっきりしたことはわかりませんが、「力石」ではないかと考えています。同様な石が「あばれみこし」で知られた葛和田大杉神社境内にあります。この石(写真2の左側)には「天明八年戊申年 三四貫匁 今村氏」の銘が彫られており、石の重さや寄贈者か持ち上げられた者の姓が刻まれており、「力石」であることがわかります。
力石を持ち上げることができれば一人前と認められたことや、神輿を担ぐため日々の鍛錬に利用したり、氏子たちの力自慢に使われていたことなどが語り継がれています。市域の力持ちは大勢いたと思いますので、このような「力石」は他にも残っているのではないかと思います。参考:高島愼助2007『埼玉の力石』岩田書院
※江戸時代の1貫は3.75kgに当たる。
写真1 中島明神社の力石と思われる丸石(横幅約55㎝)、持ち上げられませんでした。
写真2 葛和田大杉神社の力石。左34貫(127.5㎏)、中54貫(202.5㎏)、右38貫(142.5㎏)
力石を持ち上げることができれば一人前と認められたことや、神輿を担ぐため日々の鍛錬に利用したり、氏子たちの力自慢に使われていたことなどが語り継がれています。市域の力持ちは大勢いたと思いますので、このような「力石」は他にも残っているのではないかと思います。参考:高島愼助2007『埼玉の力石』岩田書院
※江戸時代の1貫は3.75kgに当たる。
写真1 中島明神社の力石と思われる丸石(横幅約55㎝)、持ち上げられませんでした。
写真2 葛和田大杉神社の力石。左34貫(127.5㎏)、中54貫(202.5㎏)、右38貫(142.5㎏)
上中条 中島明神社 [近世]
中条古墳群の発掘調査現場から道路を挟んで隣り合う場所に社地があり、社殿が東向きに建っています。現在の社地を挟む道路は土地改良前までは西から東へ流れる小川で、西側には特に清らかな清泉が沸いており、水量も豊かだったそうです。
祭神は「弁財天」を祀ってあり、本殿は妻沼聖天山の建築にかかわった匠が造ったそうです。かつてこの清泉は、江戸時代の奈良地内の豪農で社会貢献に努めた吉田市右衛門家が醸造した「奈良櫻」の仕込み水に使われたといいます。吉田家からは中島地区に清泉の管理の感謝とお礼に社殿と、その維持費に充てる数反の田んぼを寄贈してくれたと伝えられているそうです。なお、弁財天(女神)が地区の祭神なので、氏子の男子はみな美形なのだよと、笑顔で語っていただきました。このような貴重なお話も、現場を見学に来られた老婦人から伺ったものです。お嫁に来られたのは半世紀以前のことと伺いましたが、私も弁財天様に認知されたようで?、何とか現場を終え、貴重な資料を得ることができました。感謝申し上げます。
中島明神の社、左右の道路は小川跡、調査区は社殿の背後
社殿の扁額
祭神は「弁財天」を祀ってあり、本殿は妻沼聖天山の建築にかかわった匠が造ったそうです。かつてこの清泉は、江戸時代の奈良地内の豪農で社会貢献に努めた吉田市右衛門家が醸造した「奈良櫻」の仕込み水に使われたといいます。吉田家からは中島地区に清泉の管理の感謝とお礼に社殿と、その維持費に充てる数反の田んぼを寄贈してくれたと伝えられているそうです。なお、弁財天(女神)が地区の祭神なので、氏子の男子はみな美形なのだよと、笑顔で語っていただきました。このような貴重なお話も、現場を見学に来られた老婦人から伺ったものです。お嫁に来られたのは半世紀以前のことと伺いましたが、私も弁財天様に認知されたようで?、何とか現場を終え、貴重な資料を得ることができました。感謝申し上げます。
中島明神の社、左右の道路は小川跡、調査区は社殿の背後
社殿の扁額
八丁の一里塚 [近世]
愚禅書馬頭尊 [近世]
愚禅書の石造物紹介5回目。今回は市内広瀬地内の馬頭尊を紹介します。国道140号線と県道75号熊谷児玉線の交差点から南へ100m程の地点、広瀬不動尊の位置する三叉路北側の旧道脇に位置し、以前紹介した石橋供養塔の脇に建てられています。文政8年(1825)に武州大里郡廣瀬講中により造立されたmので、「前大乗九十翁愚禅」と刻まれています。
また、この馬頭尊は道標を兼ねており、台座には、「右ふかや」「左よりゐ」と講中の名前が刻まれています。
愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。
また、この馬頭尊は道標を兼ねており、台座には、「右ふかや」「左よりゐ」と講中の名前が刻まれています。
愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。
妻沼聖天山絵馬調査 [近世]
本年は妻沼聖天山本殿「歓喜院聖天堂」が国宝に指定されて5周年となります。熊谷市教育委員会では国宝指定5周年を記念して妻沼聖天山が所蔵する絵馬や奉納額を特別展示する予定です。7月上旬から8月下旬に妻沼展示館での開催に向けて準備を進めています。本日は今後の搬出に向けて展示する絵馬などの収蔵庫を確認しました。平成17年からの保存修理工事の際に本殿に掛けられていた絵馬群を取り外し、その後は収蔵庫にて保管され、一般には非公開でした。旧妻沼町時代に絵馬群の調査を実施され、概要について把握されている状況ではありましたが、当時の様子と異なる点や変色した点などが見受けられ、今後クリーニングや一部補修を実施しての展示となる見込みです。そして、何よりそれぞれの絵馬の重さが相当量あり、大人4人でも持ち上がらないものも複数ありました。これらの資料は妻沼聖天山の歴史を知る上では貴重な文化遺産です。調査研究を進めながら、皆さんに公開できるよう、その方法などを模索していきたいと思います。
「みかりや」の柚餅子 [近世]
秉燭(ひょうそく) [近世]
市内の小江川地内で千本桜事業を行っている方から、桜の植樹の際に出てきたと、秉燭を江南文化財センターへ持参されましたので紹介します。
秉燭とは、鉢状の容器(油皿)に灯心を受ける突起(臍:ほぞ)を設けた近世の燈火具の一つです。油皿に油を入れ、中央の臍(ほぞ)に灯心を立てて点火します。本資料は、口縁部・臍および油皿の一部を欠損しています。瀬戸・美濃産で18世紀につくられたのものと思われます。
この秉燭の出土した場所は、以前紹介した旧聖観寺にあたります。この聖観寺の開基は不明ですが、江戸時代の文化・文政期(1804~1829)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「聖観寺 天台宗今市村高蔵寺末小久保山大悲院ト號ス 本尊観音ヲ安ス」と記されており、明治期の廃仏毀釈により廃寺となった寺院です。詳細は不明な寺院ですが、今回紹介する資料は18世紀に属するものであることから、聖観寺で燈明具として使用されていたものかもしれません。
秉燭を用いた四字熟語に「秉燭夜遊」があります。これは、燭(ショク)を秉(と)りて夜(よる)遊(あそ)ぶ】と訓読みされて、人生は短いのだから、夜も明かりを燈して遊ぼうとの意です。
古代中国の詩人李白は、『春夜桃李園に宴するの序』で「秉燭夜遊」を詠んでいます。
夫天地者萬物之逆旅:夫れ天地は萬物の逆旅にして(それ天地はあらゆるものを迎え入れる旅の宿)
光陰者百代之過客:光陰は百代の過客なり(時間の流れは、永遠の旅人のようなものである)
而浮生若夢:而して浮生は夢の若し(しかし人生は、夢のように過ぎ去っていく)
爲歡幾何:歡を爲すこと幾何ぞ(楽しいことも、長くは続かない)
古人秉燭夜遊:古人燭を秉りて夜遊ぶ(昔の人が燭に火を灯して夜中まで遊んだのは)
良有以也:良に以有る也(実に理由があることだ)
ちなみに本詩は、芭蕉『奥の細道』の冒頭の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の原典とされています。
秉燭とは、鉢状の容器(油皿)に灯心を受ける突起(臍:ほぞ)を設けた近世の燈火具の一つです。油皿に油を入れ、中央の臍(ほぞ)に灯心を立てて点火します。本資料は、口縁部・臍および油皿の一部を欠損しています。瀬戸・美濃産で18世紀につくられたのものと思われます。
この秉燭の出土した場所は、以前紹介した旧聖観寺にあたります。この聖観寺の開基は不明ですが、江戸時代の文化・文政期(1804~1829)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「聖観寺 天台宗今市村高蔵寺末小久保山大悲院ト號ス 本尊観音ヲ安ス」と記されており、明治期の廃仏毀釈により廃寺となった寺院です。詳細は不明な寺院ですが、今回紹介する資料は18世紀に属するものであることから、聖観寺で燈明具として使用されていたものかもしれません。
秉燭を用いた四字熟語に「秉燭夜遊」があります。これは、燭(ショク)を秉(と)りて夜(よる)遊(あそ)ぶ】と訓読みされて、人生は短いのだから、夜も明かりを燈して遊ぼうとの意です。
古代中国の詩人李白は、『春夜桃李園に宴するの序』で「秉燭夜遊」を詠んでいます。
夫天地者萬物之逆旅:夫れ天地は萬物の逆旅にして(それ天地はあらゆるものを迎え入れる旅の宿)
光陰者百代之過客:光陰は百代の過客なり(時間の流れは、永遠の旅人のようなものである)
而浮生若夢:而して浮生は夢の若し(しかし人生は、夢のように過ぎ去っていく)
爲歡幾何:歡を爲すこと幾何ぞ(楽しいことも、長くは続かない)
古人秉燭夜遊:古人燭を秉りて夜遊ぶ(昔の人が燭に火を灯して夜中まで遊んだのは)
良有以也:良に以有る也(実に理由があることだ)
ちなみに本詩は、芭蕉『奥の細道』の冒頭の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の原典とされています。
愚禅書庚申塔 [近世]
愚禅書の石造物紹介4回目。今回は、市内桜木町1丁目の賢勝院南西に建てられている庚申塔を紹介します。
この庚申塔は、文政12年(1829)に熊谷の講中により建立されたものです。
「前大乗九十八翁愚禅」と刻まれています。
愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。
この庚申塔は、文政12年(1829)に熊谷の講中により建立されたものです。
「前大乗九十八翁愚禅」と刻まれています。
愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。