小江川聖観寺跡 [近世]
緩やかな丘陵と、谷合の斜面に並ぶ家々の風景が良く残る市内小江川の地には、かつて「聖観寺」と称する寺院がありました。
小江川の地名は、古くは鎌倉時代末期の嘉永四年(1306)の天皇家の御領目録のなかに「武蔵大江」(ムサシオオエ)と記載され、また、室町時代の正平七年(1352)の足利尊氏が家臣に与えた領地を記した袖判下文に「小江郷」と記載されており、小江川の地を指していると考えられています。
聖観寺の開基は不明ですが、江戸時代の文化・文政期(1804~1829)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「聖観寺 天台宗今市村高蔵寺末小久保山大悲院ト號ス 本尊観音ヲ安ス」と記されています。
明治期の廃仏毀釈により廃寺となったこの寺院は、現在、その存在を示すものとして、天和・元禄期(1681~1704)にかけて造立された僧侶の墓塔の無縫塔や庚申塔・日待供養塔が数基、東向きの平場に残されています。無縫塔には、「元禄十七甲申年 権大僧都法印永海 和尚位 正月十二日」と刻まれています。
地元小江川自治会では、往時を偲び、「小江川千本桜」事業の一環としてこの地を整備し、桜を植樹しています。
小江川の地名は、古くは鎌倉時代末期の嘉永四年(1306)の天皇家の御領目録のなかに「武蔵大江」(ムサシオオエ)と記載され、また、室町時代の正平七年(1352)の足利尊氏が家臣に与えた領地を記した袖判下文に「小江郷」と記載されており、小江川の地を指していると考えられています。
聖観寺の開基は不明ですが、江戸時代の文化・文政期(1804~1829)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「聖観寺 天台宗今市村高蔵寺末小久保山大悲院ト號ス 本尊観音ヲ安ス」と記されています。
明治期の廃仏毀釈により廃寺となったこの寺院は、現在、その存在を示すものとして、天和・元禄期(1681~1704)にかけて造立された僧侶の墓塔の無縫塔や庚申塔・日待供養塔が数基、東向きの平場に残されています。無縫塔には、「元禄十七甲申年 権大僧都法印永海 和尚位 正月十二日」と刻まれています。
地元小江川自治会では、往時を偲び、「小江川千本桜」事業の一環としてこの地を整備し、桜を植樹しています。
2016-12-20 08:36
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