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光運和尚碑(石橋供養塔) [近世]

市内柿沼の龍昌寺境内に建てられている光運和尚碑(石橋供養塔)を紹介します。
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光運和尚(1791-1859)は、龍昌寺の16世。埼玉郡若小玉村(現行田市)生まれ。9歳の時に龍昌寺16世に就いて剃髪、学を修め、23歳の時大里郡御正村浄安寺、37歳の時龍昌寺に移ります。この間密法に精修し布教の傍ら、村人に読書習字を教え、倹約をして田畝一町、山林一町六段を購い寺産となし、備金200両を営繕費に充てています。
光運和尚の没後、明治16年に村人が相謀って、光運和尚の遺金をもって村内に石橋3か所を架し、これを光運橋と称しました。明治19年11月に光運和尚の事跡を惜しんだ邑長及び門人が、石橋供養塔(本碑)を建立しています。
篆額:学斉林昇、撰・書:法類真光寺住職沙門光賢。

学斉林昇(林學齋)(1801-1859):江戸の儒学者。名は昇、字は平仲、号を学斎と称し、林復斎の子で林家の家学を継承。安政6年大学頭を継ぎ、従五位に叙された。明治7年司法省明法権大属となり、明治21年日光東照宮主典を務め、明治33年退官。東京に住んだが火災にあい、林家の採地であった市内柿沼の四分一兵衛に迎えられ、離れを隠居所とし、付近の子弟に学問や書を教えた。
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