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凝灰岩束石 [近世]

市内板井地内の個人専用住宅の工事立会いを行い、その際、取り壊された旧家の凝灰岩製の束石を確認しました。
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4面を面取り加工した凝灰岩です。この凝灰岩は、比企丘陵北側から産出されるもので、軟質石材で加工し易いことから、古くは古墳時代の古墳石室石材に利用され、近世・近代には、民家の塀や束石に使用されました。地元では「小江川石」または「福田石」と呼ばれている石材です。
↓は、石材上面に残されているタガネ状の工具による調整痕です。矢羽状に細かく調整が加えられています。
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この凝灰岩の採掘は、戦前まで行われていましたが、戦後採掘は行われなくなり、現在市内には6箇所程の石切り場の跡が残されています。
↓は、小江川地内の石切り場に残されている、切り出し途中で放棄された石材です。
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芭蕉句碑(星渓園) [近世]

市内鎌倉町内の熊谷市指定名勝「星渓園」内に建てられている芭蕉句碑を紹介します。
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風化が進み読みづらくなっていますが、「春もやや 気色ととのふ 月と梅」と刻まれています。
厳しい冬が過ぎ、徐々に春めいてくる早春の情趣を、月と梅の取り合せで描 き出している、画賛句として芭蕉が好んだ句です。元禄6年(1693)芭蕉50歳の時の作品。
高:92cm、幅:70cm 寛政8年(1796)建立。
碑の裏面には「太蕪」「秋瓜」の句と、天明から寛政にかけて熊谷を拠点として活躍した俳人「官鮎」「笑牛」「雪叩」の名が刻まれています。

秋瓜(■-1790):多少庵秋瓜。江戸時代中期の俳人。佐久間柳居(本名長利:1686-1748)に学び、のち柳居の弟子古川太無(■-1774)の門人となる。別号に止弦、松籟庵。句集に「多少庵句巣」、編著に「もゝとせ集」など。
雪叩:(1732-1799):野口雪江。若いころより学問にはげみ、17歳で肥塚の東有隣から経史を学び、18歳の頃江戸に出て、当時名声のあった書家の関思恭に入門し、書道を研鑽。博識で書道に秀で、寛政九年、弟子の勧めにより東京浅草の浅草寺に「仏身円満無背相」「十方来人皆対面」なる般若讃の中の語句を書いた両聯を奉納し、世の書家から「寛政の三名筆」としてたたえられました。現在もその額は浅草寺外陣に掲げられています。

馬頭観音(愚禅筆) [近世]

市内広瀬地内の秩父往還(国道140号旧道)沿いに建てられている愚禅書の馬頭観音を紹介します。
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文政7年(1824)武州大里郡廣瀬講中により建立されたものです。正面左下に「前大乗九十翁愚禅」と刻まれています。
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愚禅和尚(1733-1829):比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。

荻原春山碑 [近世]

荻原春山(1821-1897)の碑を紹介します。
荻原春山は、江戸末期の郷土画家で、本名千代吉。清泉斉春山と号し、道能、白梅軒とも称しました。永井太田村に生まれ、9歳のとき能護寺住職鳳旭師に画の手ほどきを受け、次いで、中条の樋口春翠(1792-1856)や狩野洞章らに師事して本格的に画道に精進したが、天保9年(1838)父の死により画筆を捨てて家業に励みました。嘉永3年(1850)家を弟信有に譲って江戸に学び、諸国を遊歴の後、宅地内に隠居所を構えて、画の道に専念しました。明治15年東京で開かれた第1回内国絵画共進会に埼玉県の画人として、「神宮皇后像」等を出品し、続いて、明治17年の第2回内国絵画共進会に出品して埼玉画人の名を高めました。
↓は、妻沼の大我井神社境内の富士塚に建てらているもので、明治23年(1890)に長谷川徳次郎により建てられたもので、春山の肖像と「七十翁荻原春山筆」と刻まれています。
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↓は、市内永井太田地内に、春山没年の翌年(明治30年)に弟子達によって建てられた「画伯荻原春山翁碑」です。
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秋山寿蔵碑(秋山忠右衛門碑) [近世]

市内広瀬の浅間神社境内に建てられている秋山寿蔵碑(秋山忠右衛門碑)を紹介します。
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本碑は、文久元年(1861)秋山忠右衛門71歳の時に門人により建立された顕彰碑です。
撰文:寺門静軒(1796-1868)、書:長岡雪城(1808-1866)。

秋山忠右衛門(1792-1882):教育者。広瀬郷に生まれ、熊谷の寺小屋「玄染堂」にて学を修め、27歳の時に広瀬郷の名主となる。以後36年間地方自治に尽くし、その功績により年寄役を仰付けられ、苗字帯刀を許される。私塾を開き、門人360余名を数える。
長岡雪城(中沢 雪城):幕末の三筆の一人巻菱湖(1777-1843)の高弟で、菱湖四天王の一人。雪城の門下から巌谷一六(1834-1905)・西川春洞(1847-1915)・金井金洞(1833-1907)の大家が輩出する。

梅所居士廣記碑 [近世]

市内玉井の旧光福寺境内に所在する「梅所居士廣記碑」を紹介します。
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本碑は、梅所と号し、天保9年に没した玉井村の私塾師匠片岡良の業績を記したものです。天保10年(1839)私塾子弟により建立された一種の筆塚。
書:巻大任 文:佐藤坦 刻:窪世祥 石材は根府川石(安山岩)。
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書・文・刻とも当時の一流所によりつくられた碑です。

巻大任:(1777-1843) 江戸時代後期の日本の書家。現・新潟県新潟市西蒲区巻生。姓は池田、後に巻を名乗る。名は大任(おほに)、市河米庵(1779-1858)・貫名菘翁(1778-1863)と共に「幕末の三筆」の1人。幼少の頃から新潟の中心部で育ち、善導寺の住職に書の手ほどきを受け、19歳で江戸へ行き亀田鵬斎(1752-1826)に書法と漢詩を学ぶ。31歳のとき書塾「蕭遠堂」を開く。平明で端麗な書風は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられた。門下生は1万人を超えたと伝えられ、「菱湖流」と呼ばれた流派は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。立原杏所(1786-1840)から、千年に1人の傑出した能書家として「上下千年」と刻した印を贈られている。

佐藤坦:(1772-1859) 佐藤 一斎。美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。岩村藩に仕え、12・3歳の頃に井上四明に入門し、大坂に遊学し中井竹山に学ぶ。その後、昌平坂学問所に入門し、文化2年(1805)には塾長に就き、多くの門弟の指導に当たった。

窪世祥:生没年不詳の江戸後期の石工で、「中慶雲」「広瀬群鶴(1750-1809)」とともに、江戸の3大名石工と言われています。「窪 世祥」が刻んだ石造物の年号は、文化元年(1804)~安政元年(1855)の51年間です。中村仏庵(書家:1751-1834)・酒井抱一(画家・俳人:1761-1829)・亀田鵬斎(書家:1752-1826)等の文人と親交があった。

備前堀再興記碑 [近世]

この碑は、市内八木田に所在する備前堀再興記碑公園内に設置されています。
碑面は、県道歩道工事ための移設作業の際に、碑文のほとんどが剥落してしまっています。
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備前堀は、慶長9年(1604)に関東代官頭伊奈備前守が江戸幕府の命を受けて開削した用水路で、現在は、本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市、熊谷市へ流れ、福川に合流し利根川へと流れます。天明3年(1783)の浅間山の大噴火により、岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がり、度々洪水となり、妻沼地域では使用不能となりました。これを幕府に願い出て再興したことを記念して、天保4年(1833)建立したのが本碑です。石材は輝石安山岩(根府川石)。
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再興には、吉田市右衛門宗敏が、備前渠用水の復興のために奔走し、金200両の大金を寄付しており、碑文には吉田市右衛門宗敏への感謝の内容が、江戸の名石工「窪 世祥」により刻まれています。
西側には新たに復刻した碑が建てられています。
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血道之碑 [近世]

市内妻沼の歓喜院境内に建てられている「血道之碑」を紹介します。
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文政11年(1828)に建立されたもので、神岡徳一による、急性熱性病に処方する麻黄湯(まおうとう:漢方薬の一種で、発汗作用を持つ、代表的解熱剤)、桂枝湯(けいしとう:漢方薬の一種で、風邪の初期症状に用いられる)の処方の仕方等、当時の医学の処方や心得が記された珍しい石碑です。

撰:大濱玄道、書:中村仏庵、石工は、先に「歓喜院の手水鉢」で紹介した窪世祥。
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神岡徳一(1797-1883):江戸後期の医者。那珂郡甘糟村(現埼玉県美里町)の代々医者を営む家に生まれる。本庄へ移り開業。
大濱玄道(1774-1828):江戸後期の医者。幡羅郡玉井村(現埼玉県熊谷市)で生まれる。医業を志して江戸に出て、法印竹田に漢方を、宇田川榛斎に蘭学を学び、玉井村に帰る。
中村仏庵(1751-1834):江戸中期から後期の書家。幕府畳方の棟梁を務める。18基余の窪世祥とコラボした石碑が確認されている。

歓喜院手水鉢 [近世]

市内妻沼の歓喜院境内南側に設置されている花崗岩製の手水鉢を紹介します。
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この手水鉢は、江戸名石工の一人「窪 世祥」(くぼ せしょう)が刻んだものです。正面の偈頌は『大聖歓喜天咒法経』からとったもので「我有微妙法 世間甚希有 衆生 受持者 皆與願満足 右 昇虚空而説偈」、左側面に「天保七丙申年 三月大吉晨」、右側面に「別當 海旭 江戸 窪世祥刻」と刻まれています。
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現在、「窪 世祥」が刻んだと考えられている石造物は、江戸府内を中心に130基余りを数え、江戸から遠く離れた熊谷市内にも7基が確認されています。
RIMG1905.jpg右側面
「窪 世祥」は、生没年不詳の江戸後期の石工で、「中慶雲」「広瀬群鶴(1750-1809)」とともに、江戸の3大名石工と言われています。「窪 世祥」が刻んだ石造物の年号は、文化元年(1804)~安政元年(1855)の51年間です。中村仏庵(書家:1751-1834)・酒井抱一(画家・俳人:1761-1829)・亀田鵬斎(書家:1752-1826)等の文人と親交がありました。以前市内長福寺の亀田鵬斎書の庚申塔を紹介しましたが、これも「窪 世祥」が刻んだものかもしれません。

八幡宮湧泉之記碑 [近世]

妻沼地内の若宮八幡神社境内に所在する「八幡宮湧泉之記碑」を紹介します。
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延享5年(1748)造立。砂岩製。高93cm。裏面には、若宮八幡神社建立の縁起と、寛保の大洪水(寛保2年:1742)の際、井の水は濁り飲めず民衆が憂いていたところ、寄しくも清泉が湧き邨を救ったと記載されています。社主:内田惣兵ヱ、願主:橋上五郎兵衛、橋上茂右ヱ門。
本碑は、先に紹介した妻沼歓喜院の中に所在する湧泉碑と同年銘のものであり、2基とも寛保の大洪水の際に泉が湧き民衆を救ったと刻まれています。

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