SSブログ

「平戸の大仏一般公開」のお知らせ [その他]

「平戸の大仏一般公開」を予定通り、下記の日程で行います。

9月の一般公開
 日 時: 第1日曜日 9月6日(日)  午前10時~午後3時
      第3日曜日 9月20日(日) 午前10時~午後3時  
 場 所: 熊谷市平戸644(源宗寺)
※車でお越しの際は、源宗寺本堂裏側に駐車スペースがございます。
82B6D60B-2001-47D2-891B-01F369A0CBB4.jpeg

10月の一般公開につきましては、源宗寺本堂の解体工事のため実施が難しくなる可能性があります。その場合には、源宗寺本堂保存修理委員会ホームページにてご案内いたします。また、新型コロナウィルスの感染状況により中止せざるを得ない場合にも、同ホームページにてご案内いたしますので、あわせてご了承下さいますようお願い申し上げます。

【お願い】
  新型コロナウイルス感染防止のため、次のご協力をお願いいたします。
 1.マスクの着用をお願いします。
 2.以下に該当する場合には、拝観をご遠慮ください。
   ・体調が良くない(風邪の症状、倦怠感、味覚・臭覚の異常など)
   ・体温が37.5度を超えている
   ・過去2週間以内に海外渡航歴がある
   ・同居家族や身近な知人などに感染が疑われる人がいる
   ・新型コロナウイルス感染陽性とされた方との濃厚接触がある
 3.氏名、住所、電話番号、健康状態等についての記帳のご協力をお願いいたします。


 源宗寺本堂保存修理委員会ホームページ:https://oobotoke.com/

 問い合わせ先
  源宗寺本堂保存修理委員会 
  事務局 山川宏之(山川会計事務所内)
  TEL:048-526-5874
  FAX:048-523-7525


nice!(0)  コメント(0) 

文化財保護に向けた源宗寺保存修理事業 寄付金募集の協力依頼 [その他]

 8月29日(土)、佐谷田公民館にて、佐谷田地区の6自治会(東、西、南、北、戸手、平戸)の各自治会長にお集まりいただき、源宗寺本堂保存修理事業についての説明をさせていただきました。
 現在、本堂の保存修理工事の着手に向けて工事費用約5千万円の確保を目指して、当事業委員会が市内外に向けて広く寄附を呼び掛けているところですが、寄附金は未だ大幅に不足しているのが現状です。
 これまで源宗寺護持会及び平戸自治会を中心に、寄付金募集の協力依頼をして参りましたが、平戸地区だけでなく、佐谷田地域全体の地元の皆様のご協力をいただきたく、今回の機会を得た次第です。
 源宗寺は、明治時代に廃寺となり、それ以降、無住職で宗教法人としての法人格もない寺院です。昭和29年に、古くから「平戸の大仏」として親しまれていた薬師如来と観音菩薩の二体の木彫大仏坐像が本市の指定有形文化財となってから、関係者や地域の方々の力によって、今日まで護られ受け継がれてきました。
 源宗寺本堂が、単なる宗教施設を超えて、本市の指定有形文化財「木彫大仏坐像」(平戸の大仏)を護るための文化財収蔵施設であるということを改めて地域の皆様に再認識していただくため、各自治会長の皆様に、当事業の意義を当委員会及び市教育委員会よりお伝えしました。
 135C1622-C34A-400B-B612-C06850A0100F.jpeg
 (写真:佐谷田公民館)

 当事業では、1万円以上のご寄附をいただきました方々のお名前を、奉納名簿または奉納額に掲載させていただきます。また、“令和の奉加帳”を作成し、大仏の体内に奉納し永遠に法要させていただきます。(いずれも、ご承諾いただいた方に限ります。)ご協力いただいた方々の記録が100年、200年先へと受け継がれることとなります。
 尚、寄附金の金額は、1万円未満でも有り難くお受けしております。寄附をいただいた方には、金額にかかわらず、誓願成就、無病息災等を祈願した名刺型の御札をお渡しいたします。

 皆様のご理解とご協力、心よりお願い申し上げます。


 

nice!(0)  コメント(0) 

第14回源宗寺本堂保存修理委員会 [その他]

 8月24日(月)、熊谷商工会館にて第14回源宗寺本堂保存修理委員会が行われました。今回の会議の主な議題は、工事内容及び業者選定、今後の寄附募集についてです。
 前回の委員会終了後、建築小委員会にて、仏像の移動方法、業者選定の具体的な方針について話し合いを重ねてきました。

 吉備文化財研究所の牧野先生のご提案のもと、仏像は建築の難易度とコスト面を考慮し、次の方法で行う予定です。
 ①仏像搬出・・・本堂横(東側)へ平行移動。
 ②仏像補強・・・仮設倉庫内で保管時に、仏像内部を補強。(仏像を寝かせることに耐えられるよ
         うにする。)
 ③仏像搬入・・・本堂正面(南側)から、仏像を寝かせて搬入。

 業者選定については、地元や近隣地域の業者4社に依頼をし、上限額を決めたうえでのプロポーザル方式にて施工業者の最終決定を行います。今後の予定については、9月上旬に各業者への現場説明を行い、9月末には業者を決定、10月より工事に着手する計画です。

 寄附募集の状況については、工事費用総工費約5千万円の確保を目指して呼びかけているところですが、目標達成までにあと2千万円ほど不足しているのが現状です。現在、ホームページや当ブログ、SNS等で情報発信を行っているところですが、今後、活動が本格化していくのと同時に、当事業のPRにもより一層力を入れていく予定です。

 地元住民で委員会を立ち上げ、専門家や教育機関、行政が一体となって、産官学協働で文化財保護事業を行う事例は、他の地域でもあまり見られない取り組みのようです。熊谷独自の文化財保護スタイルとして、当事業が広く注目を集められればと思います。
9288DB21-6E15-4783-93B1-A51574A35AD6.jpeg
源宗寺本堂保存修理工事設計図 意匠図・立面詳細図


nice!(0)  コメント(0) 

350年続いた源宗寺本堂での最後の法要 [その他]

 8月15日(土)、熊谷市平戸の源宗寺本堂にて施餓鬼・祈願法要が行われ、暑い中、多くの護持会の皆様がお集まりになられました。江戸時代より、350年続いた今の源宗寺本堂での最後の法要となります。今年の法要は、コロナ禍の中、三密を回避するため、護持会の皆様は堂内には入堂せず、屋外で間隔をあけての参列となりました。
6113408D-A4C1-4732-B51E-D28272C00D3A.jpeg
 午前11時より開始された施餓鬼終了後、無病息災、傷病平癒並びに新型コロナウイルスの早期終息を願って、東竹院・岸ご住職様による祈願法要が執り行われました。御祈願いただいた御札は、源宗寺本堂保存修理委員会・木島会長より、参列された護持会の皆様に配賦されました。
686BBBF8-F6FC-4DF9-982C-239EB7690C63.jpeg
 また、御祈願いただいた御札は、これまで源宗寺本堂保存修理事業にご寄付いただいた皆様に郵送にてお送りし、今後、ご寄付にご協力いただいた方にも配賦する予定です。
4E11167F-A3A1-420D-8A31-6DD28B08350F.jpeg
 祈願法要の様子は、今週8月21日(金)18時より、J:COM熊谷・深谷「ジモト応援!埼玉つながるNews~熊谷・深谷~」にて放送予定です。



nice!(0)  コメント(0) 

真言宗智山派 慈雲山 真観寺 [その他]

 行田市大字小見に所在する真観寺。先月、源宗寺本堂建て替え工事の参考視察のためお伺いした、行田市白川戸の西明寺のご住職様が兼務されている寺院です。
 仁王門をくぐると正面に現れるのが観音堂。この堂内には、ご本尊である聖観音像が安置されています。像高103㎝、檜の寄木造で漆箔が施され、平安時代末期の仏像の代表作として、県指定有形文化財となっています。ご本尊は、12年に一度、午年に御開帳されるそうです。
C51443FA-E8D0-4B6A-A411-D6D8287C0A98.jpeg
 観音堂は高床式となっており、床の高さが1メートルほどあります。床下を覗くと形や大きさの不揃いな礎石が並ぶ中に、正方形の形の整った礎石が所々に見られます。形の整った礎石は、後世につけ足されたもののようです。
61B1E9EB-9CD0-42BB-9B73-F923646DC320.jpeg

 観音堂の裏手には、国指定史跡となっている小見真観寺古墳があります。
97CE8F16-3ACF-4BB6-A8B5-F5D4CD5809DD.jpeg
全長102m、高さ8mの埼玉県で4番目に大きい前方後円墳です。後円部と鞍部の2か所に、横穴式石室があります。階段を上がると、足元に石室の閉塞に使用されていたと思われる、大きな緑泥片岩の板石が現れます。
7178C6DC-7037-4BF8-916C-1EE6A7A32643.jpeg
 後円部の石室は、寛永11年(1634)に、鞍部の石室は明治13年(1880)に発見されました。鞍部の石室からは金環、鉄製刀子(とうす)、金銅装頭椎太刀(かぶつちのたち)、銅鋺(どうわん)などが発見され、これらは東京国立博物館に所蔵されています。
 小見真観寺古墳は、昭和6年(1931)に国の史跡に指定されるまで多くの研究者の注目を集めたようです。大里村(熊谷市)の好古家・根岸武香もその一人です。根岸武香は、明治期に第2代県会議長として政治の世界で活躍し、吉見百穴の発掘に関わるなど考古学の分野でも大きな功績を残した人物です。
 近年の発掘では、埴輪の破片が多く発掘され、また出土遺物などから6世紀末か7世紀初め頃に築かれた市内で最も新しい前方後円墳ではないかという推測もされているようです。



参考文献
埼玉県立歴史と民俗の博物館 2014 『わくわく埼玉県歴史ロマンの旅』学陽書房
参考URL
https://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/omisinkanjikofun.html(行田市ホームページ)
nice!(0)  コメント(0) 

復元住居の今 建築後12年目の前中西遺跡の復原住居 [その他]

 上之地区土地区画整理事業に伴う令和2年度の発掘調査が始まっています。今の季節例年のように雨水と泥濘の戦いの中、古代の遺構遺物を調査保存する作業を続けています。付近を通行の際足場が悪いので遠目にて見学ください。
 約12年前、前中西遺跡の発掘成果を知っていただくため、地元小学校の親子や有志などにより古代の復原住居を造りました。
 竪穴を掘って、柱を立て、炉を据え、円形寄棟の茅葺きおろしの屋根ができました。地面からせり出したような安定した作りです。
 さて12年経過して、しばらくぶりに訪れました。あいにくの雨天でしたが、入口を開放しているので吹き込んだ雨は仕方ないにしても、竪穴内は雨漏りもなく結構いい具合に保たれています。いつ朽ち果てるのか実験考古学の一環?として見守っていたきたいと思います。
image001s.jpg
南側の入口部

image003s.jpg
東面

image005s.jpg
縄文時代から弥生時代の竪穴住居跡を手本とした。内部と河原石の炉
nice!(0)  コメント(0) 

石仏熟覧 番外 弥藤吾の「王子」は「大路」か [その他]

 弥藤吾所在の王子塚石仏についてお話しした中で、地名の由来を貴種流離譚をもとに仮説を揚げましたが、別案をもう一つ披露いたします。
 古代まで遡りますが、大化の改新と呼ぶ律令国家への国づくりが本格化する中で、全国に国司が派遣され地方政治の拠点となる国府・郡家と呼ぶ行政施設(官衙)と共に道路や港などの交通網の整備も一体的に行われました。市域では幡羅郡家であった「幡羅官衙遺跡群」が西別府地内で発見されています。武蔵国の国府は現在の東京都府中市に「武蔵国府跡」が確認されています。都と国府・郡衙を結ぶ交通網も作られ幹線道路に当たる「東山道」は北関東を通り、現在の太田市付近から分岐して武蔵国府へ至る南北の道となる「武蔵路」が熊谷市域にあることが確実です。利根川・荒川の渡河地点には「駅家(津)」の設置が予想され、道路跡や厩舎跡など発見が予想されます。
1946menumas2.jpg
(1946年撮影航空写真 妻沼南部)

 武蔵道の遺跡は北は太田市、南は所沢市・川越市で、道幅約12mの側溝を持つ直線的な道路跡が発見されています。この武蔵路に相当する道筋は市域を走る旧国道407号線(現 県道太田熊谷線)にほぼ一致します。407号線は武蔵路の道筋を踏襲している可能性が高いのです。都の大路は約74m、平安京では約85mです。熊谷市で発見されるかもしれない道路跡も幅12m前後、都の小路の規格ですが地方では立派な大通りです。全国の例を見ると「大道(通・路)・だいどう・おおみち」「大路―おおみち・おおじ」「大街道―だいかいどう、おおかいどう」、などの地名に残ることがあります。
 「西限村岳境大道」、「西限庄境大通」などは熊谷家文書に見える鎌倉時代の熊谷の道路の名(地名)で、市内を通る武蔵路のことと考えられています。地名の漢字は当て字であることが多く、呼び名の意味するところを考える必要があります。弥藤吾の「王子」は武蔵路を指した「大路」の意味があったのかもしれません。近くの王子西遺跡からは古代の建物跡と倉庫などに掛けられた海老錠の鍵が発見されており、倉庫を持つ集落は官衙遺跡や交通の要衝の遺跡などが多いことから、武蔵路に接していたことも想定されるでしょう。
ebijyou43s.jpg image00343s.jpg
海老錠の仕組み(習志野市ホームページ「海老錠と鍵 ―奈良・平安時代のセキュリティ―」より) 王子西遺跡出土の「鍵」

参考 『熊谷市史 資料編2 古代中世』  519.520頁 「熊谷家文書 1.3」
nice!(0)  コメント(0) 

藤井家の水車 [その他]

 現在、本堂の保存修理事業が進められている市内平戸に所在する源宗寺。堂内には、約4メートルに及ぶ薬師如来と観音菩薩の二体の仏像が安置され、古くから「平戸の大仏」と呼ばれ、地域の人々に親しまれてきました。この二体の仏像は、木彫大仏坐像という名称で熊谷市の指定有形文化財となっています。
 現在も寺院を管理する藤井家の祖、藤井雅楽之助は近世初期に肥前国松浦郡平戸郷(現在の長崎県平戸市)からやってきたという言い伝えがあり、源宗寺は雅楽之助が開基したとされています。
 藤井家所蔵の文書には、藤井家は江戸時代後期から水車の経営をはじめ、昭和30年(1955)頃までは、製麺所を経営していたという記録があります。水車は、昭和7年(1932)に壊されましたが、藤井家には現在もその水車の一部が残されています。
 写真は、藤井家に残る水車の歯車と堰の鍵です。鍵には、「平戸大堰鍵」と書かれた札がつけられています。
3110C10C-FA45-4D7B-8C62-9134E247719D.jpeg
25AD004C-10C0-4D45-AE4B-AAA9540C4C7C.jpeg
nice!(0)  コメント(0) 

第13回源宗寺本堂保存修理委員会 [その他]

 今週の月曜日、13日に熊谷商工会館にて第13回源宗寺本堂保存修理委員会が行われました。コロナウイルスの影響で、本年2月を最後に、長らく中断を余儀なくされていた会議ですが、約5か月ぶりに再開することができました。
61203EDC-21D8-4796-BB2C-82284E23AB42.jpeg
 コロナ禍で思うように寄付金が集まらないなか、現実可能な費用で改修工事を行うため、先月行われた建築小委員会では、工事費用の再設定と施工業者の再選定を行う方針となりました。
 今回の工事では、現在あるお堂の横に仮設倉庫を建て、一旦大仏を搬出、安置します。お堂を壊して再建を行い、再建途中で大仏を堂内に戻す計画となっています。仏像修復の専門家で、大仏の調査を行った牧野隆夫先生によると、「平戸の大仏」を一言で言い表すならば「箍(たが)のない桶」だといいます。非常に強度の弱い造りである大仏の搬出には、細心の注意を払わなければなりません。搬出作業には、牧野先生率いる吉備文化財研究所の皆様にご協力いただきますが、施工業者の選定においても、費用の面からだけでなく、この重大な作業を連携して行うことのできる業者を慎重に選ぶ必要があります。
 また、コロナウイルスの影響が続くなか、本事業を応援してくださっている方々への感謝の気持ちと、少しでも皆様に元気になってもらえればという思いから、お札を作成し、これまで寄付にご協力いただいた方々に配布することが決まりました。お札の作成には、立正大学仏教学科の秋田貴廣先生、地理学科の原美登里先生と学生の皆さんにご協力いただきます。会議では、原先生プレゼンのもと、学生の皆さんが考えたお札のデザインの素案をご紹介いただきました。
 未だ課題の多い源宗寺本堂保存修理事業ですが、活動が再開したことにより、委員会全体の気運の高まりを感じました。


nice!(0)  コメント(0) 

肥塚古墳群と古塚古墳石棺 ― 3 [その他]

 肥塚古墳群中には、少なくとも3種類の石材を主に使った古墳石室が造られていました。
1河原石積石室 2凝灰岩截石組石室 3角閃石安山岩転石切組石室の3種類です。時代は古墳時代後期から終末期までのおよそ100年間ほどの間です。
 古墳を築いた肥塚近辺の古墳時代人(肥塚古墳人)の出自や動向に関心が向きます。また石材の入手経路は、専門的な石工の関与はあったのか、種類の差は時期差なのか、稀な石棺をなぜ必要としたのかなど想像が膨らみます。
 石材に関連して少し補足したいと思います。石室に使用された石材の入手先は次のように考えられます。
 ・人頭大の河原石は荒川本流の本田・押切近辺  ―鹿島古墳群、三ヶ尻古墳群など(Ⅰ類型の古墳群)
 ・白色細粒の凝灰岩は熊谷市小江川、滑川町福田近辺 ―塩古墳群、野原古墳群など(Ⅱ類型の古墳群)
 ・角閃石安山岩転石は利根川本流とその水系   ―中条大塚古墳、飯塚古墳群など(Ⅲ類型の古墳群)
他に古墳礫床に使う河原石円礫と天井石に使用した緑泥石片岩の板石は利根川・荒川本流と長瀞近辺の河川内の露頭からもたらされたと考えられます。 

 市内の古墳では古墳群独自の石材を多用する場合が主で、肥塚古墳人のように各種の石材を巧みに使用していることは異例です。Ⅱ類型の古墳群にⅢ類型の古墳が造られることはほとんどありません。逆の場合も同様です。また、荒川の流路の異動を想定すると肥塚の地は絶妙の位置になります。石材の取得環境と各種の石室類型の存在は肥塚古墳人の独自性ともいえ、各種の古墳構築技術を持っていた人たちだったとも考えられ、埴輪や須恵器などを専門的に作る工人と同様に古墳石室を造る専門工人と云える人たちだったのではないかと想像してしまいます。(新井)
image020s.jpg
塩古墳群Ⅰ-28号墳石室羨道部西壁面の截石組状況

image022s.jpg
角閃石安山岩截石組石室 中条大塚古墳
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。