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石仏熟覧 番外 弥藤吾の「王子」は「大路」か [その他]

 弥藤吾所在の王子塚石仏についてお話しした中で、地名の由来を貴種流離譚をもとに仮説を揚げましたが、別案をもう一つ披露いたします。
 古代まで遡りますが、大化の改新と呼ぶ律令国家への国づくりが本格化する中で、全国に国司が派遣され地方政治の拠点となる国府・郡家と呼ぶ行政施設(官衙)と共に道路や港などの交通網の整備も一体的に行われました。市域では幡羅郡家であった「幡羅官衙遺跡群」が西別府地内で発見されています。武蔵国の国府は現在の東京都府中市に「武蔵国府跡」が確認されています。都と国府・郡衙を結ぶ交通網も作られ幹線道路に当たる「東山道」は北関東を通り、現在の太田市付近から分岐して武蔵国府へ至る南北の道となる「武蔵路」が熊谷市域にあることが確実です。利根川・荒川の渡河地点には「駅家(津)」の設置が予想され、道路跡や厩舎跡など発見が予想されます。
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(1946年撮影航空写真 妻沼南部)

 武蔵道の遺跡は北は太田市、南は所沢市・川越市で、道幅約12mの側溝を持つ直線的な道路跡が発見されています。この武蔵路に相当する道筋は市域を走る旧国道407号線(現 県道太田熊谷線)にほぼ一致します。407号線は武蔵路の道筋を踏襲している可能性が高いのです。都の大路は約74m、平安京では約85mです。熊谷市で発見されるかもしれない道路跡も幅12m前後、都の小路の規格ですが地方では立派な大通りです。全国の例を見ると「大道(通・路)・だいどう・おおみち」「大路―おおみち・おおじ」「大街道―だいかいどう、おおかいどう」、などの地名に残ることがあります。
 「西限村岳境大道」、「西限庄境大通」などは熊谷家文書に見える鎌倉時代の熊谷の道路の名(地名)で、市内を通る武蔵路のことと考えられています。地名の漢字は当て字であることが多く、呼び名の意味するところを考える必要があります。弥藤吾の「王子」は武蔵路を指した「大路」の意味があったのかもしれません。近くの王子西遺跡からは古代の建物跡と倉庫などに掛けられた海老錠の鍵が発見されており、倉庫を持つ集落は官衙遺跡や交通の要衝の遺跡などが多いことから、武蔵路に接していたことも想定されるでしょう。
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海老錠の仕組み(習志野市ホームページ「海老錠と鍵 ―奈良・平安時代のセキュリティ―」より) 王子西遺跡出土の「鍵」

参考 『熊谷市史 資料編2 古代中世』  519.520頁 「熊谷家文書 1.3」
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