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芭蕉句碑(大我井神社) [句碑・歌碑]

市内妻沼の大我井神社境内に建てられている芭蕉句碑を紹介します。
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「はるの夜は 桜に明けて しまいけり」
春の夜がほのぼのと白んできて、視界は、見渡す限りの桜となって明けてしまったとの意。元禄6年頃の作で、出典は『翁草』。大正7年(1918)建立。
発願者として青蛙 西田平吉等5名の名が刻まれています。

冬男句碑 [句碑・歌碑]

市内上中条の常光院境内に建てられている冬男の句碑を紹介します。
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「行けどゆけど 大虹のした ぬけきれず」冬男 と刻まれています。
揮毫:野口白汀、石工:野口大作、跋:角田双柿

冬男:宇咲冬男:本名小久保 誠(1931-2013)。俳人。常光院に生まれる。宇田零雨に師事、「俳句」と「現代連句」を学ぶ。昭和28年『俳句研究』の20代新人作家に選ばれる。昭和55年『俳句鑑賞辞典』の現代作家400人中に選ばれる。
野口白汀:(1931-2007)書家。1931年埼玉県生まれ。松井如流に師事。日展会員、毎日書道会理事、東京書道会理事長などを務め、大東文化大学名誉教授、東京大学書道研究会講師を務める。

宮崎利秀句碑(大我井神社) [句碑・歌碑]

市内妻沼の大我井神社境内に建てられている宮崎利秀句碑を紹介します。
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「下駄はきの 一教師たり 稲の花」
昭和58年(1983)3月、宮崎利秀句碑建立委員会により建立。
書:柴田侑堂 撰:河野南畦

宮崎利秀:(1920-1982)文武両道の英語教師、文学者、俳人。直木賞作家杉森久英の『黄色のバット』のモデルとされる。
河野南畦(1913-1995 こうのなんけい):俳人 元・現代俳句協会副会長。昭和10年「獺祭」に入り、吉田冬葉に師事。21年「あざみ」を創刊し、主宰。横浜俳話会会長、神奈川新聞俳壇選者などを務める。句集に「花と流氷」「黒い夏」「試走車」「硝子の船」「自解100句選河野南畦集」「河野南畦全句集」など。
柴田侑堂(1913-2006):俳号 白陽 市内上新田生。18歳で書の道に入り、熊谷市書人連盟、埼玉県書道人連盟、書道団体「洸風会」の創設に参画し、埼玉県美術家協会においても要職を歴任し、その功績により埼玉県文化功労章を受章するなど、郷土の書道界の振興に大きな足跡を残す。また、俳誌『相思樹』を主催し、朝日新聞・産経新聞の俳壇選者を務めた現代俳句人。

棚澤慶治歌碑 [句碑・歌碑]

市内上之地内の上之村神社境内に建てられている棚澤慶治歌碑を紹介します。
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「産土の 宮の上棟 祝ふとき 棹となり津つ 白鷺渡る 慶治」と刻まれています。
昭和56年4月に棚澤慶治歌碑建立委員会・ときわ会により建てられたものです。

棚澤慶治(1898-1996):歌人・熊谷市議会議員。大正5年俳誌ホトトギス作句発表後短歌に転じ、アララギに作歌を発表し土屋文明(1890-1990:歌人・国文学者)に師事する。昭和20年、鹿児島寿蔵(1898-1982:アララギ派歌人・紙塑人形の人間国宝)の市内疎開を契機に「新泉」同人となり、後に「潮汐」に合流する。昭和29年ときわ新聞編集発行人となり、昭和40年歌集「土のにほい」、「わが文学と生活」を出版。熊谷で客死した万葉歌人安藤野雁(1815-1867)を慕い、荒川土手に歌碑の建設を行う。昭和25年熊谷市文化功労者、昭和54年埼玉県第1回文化ともしび賞受賞。

蕪村句碑(大我井神社) [句碑・歌碑]

市内妻沼の大我井神社に残されている蕪村句碑を紹介します。
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「菜の花や 月は東に 日は西に」 
平成元年(1989)6月妻沼町俳句連盟の俳句塚建設委員会により建立されたもので、本句は、安永3年(1774)3月23日、蕪村が、現在の神戸の六甲山地の摩耶山を訪れたときに詠んだ句です。
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蕪村(1716-1784)は、妻沼の地を訪れ、「雨洗ふ 永井の衆の 早苗哉」の句も残しています。
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蕪村は「菜の花」を愛し、この他
「菜の花を 墓に手向けん 金福寺」
「菜の花や 遠山どりの 尾上まで」
「菜の花や 油乏しき 小家がち」
「なの花や 昼一しきり 海の音」
「菜の華や 法師が宿を 訪はで過ぎ」
「なのはなや 笋(たけのこ)見ゆる 小風呂敷」
「菜の花や みな出はらいし 矢走船」
「菜の花や 鯨もよらず 海暮ぬ」
「菜の花や 和泉河内へ 小商」
「菜の花や 壬生の隠家 誰々ぞ」
等、多くの「菜の花」の句を詠んでいます。

藤原光俊句碑(大我井神社) [句碑・歌碑]

市内妻沼の大我井神社境内に建てられている藤原光利の句碑を紹介します。
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「紅葉ちる 大我井の杜の夕だすき また目にかかる 山のはもなし」
鎌倉期の歌人藤原光俊が、東山道への道すがら太我井の杜を眺望し詠んだ句です。
本碑は、昭和17年(1942)田島峯吉外有志で建立したものです。書:相馬御風

藤原光俊:(1203-1276)鎌倉時代の公家、歌人。順徳天皇に近侍し,承久の乱で筑紫に配流。嘉禎元年(1235)右大弁となるが、翌年出家。将軍宗尊親王の歌道師範。「続古今和歌集」撰者の一人。

相馬御風:(1883-1950) 詩人・歌人・評論家。本名は昌治。新潟県糸魚川市出身。早稲田大学文学部哲学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や童謡の作詞者としても知られる。

芭蕉句碑(歓喜院) [句碑・歌碑]

市内妻沼の歓喜院境内に設置されている芭蕉句碑を紹介します。
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「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
この句は、芭蕉が、実盛の兜がまつられている石川県小松市の多太神社を訪れた際に詠んだ句です。
昭和54年(1979)聖天山開創800年を記念して、斎藤別当実盛公顕彰句碑建設の会(会長:堀越敬紀)が建立したもので、裏面には、20の現代句が刻まれています。
書:柴田侑堂 刻:原田美智夫

柴田侑堂(1913-2006) 俳号:白陽 市内上新田生。18歳で書の道に入り、熊谷市書人連盟、埼玉県書道人連盟、書道団体「洸風会」の創設に参画し、埼玉県美術家協会においても要職を歴任し、その功績により埼玉県文化功労章を受章するなど、郷土の書道界の振興に大きな足跡を残す。また、俳誌『相思樹』を主催し、朝日新聞・産経新聞の俳壇選者を務めた現代俳句人。

芭蕉追善脇起俳諧連歌碑 [句碑・歌碑]

市内上中条の常光院境内に建てられている、芭蕉翁の三百回忌を記念して、平成5年(1993)に連句協会埼玉支部が建てた、追善脇起俳諧の連歌碑を紹介します。
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「旅人と 我名よばれん 初しぐれ」芭蕉翁 と刻まれています。
出典は『笈の小文』(おいのこぶみ:紀行文)。貞亨4年(1687)10月25日、芭蕉が亡父三十三回忌の法要に参列するために江戸深川を出発する際、10月11日其角亭で行われた送別句会で詠まれた句。
この句に続き、「なお咲きつづく山茶花の道」小久保康田 以下42句が刻まれています。

小久保康田:常光院貫主。


柴田白陽句碑2 [句碑・歌碑]

以前、市内上新田の諏訪神社境内に建てられている柴田白陽の句碑を紹介しましたが、今回は、荒川を挟んだ対岸の大麻生地内の大栄神社境内に建てられている句碑を紹介します。
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「永久に残る 碑の人々に 風薫る」と詠まれており、隣接して建立されている、「第二次世界大戦従軍記念碑」にちなんで詠んだ句です。平成3年5月5日建立。書:柴田侑堂、石工:新井市太郎
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柴田侑堂(1913-2006) 俳号:白陽 市内上新田生。18歳で書の道に入り、熊谷市書人連盟、埼玉県書道人連盟、書道団体「洸風会」の創設に参画し、埼玉県美術家協会においても要職を歴任し、その功績により埼玉県文化功労章を受章するなど、郷土の書道界の振興に大きな足跡を残す。また、俳誌『相思樹』を主催し、朝日新聞・産経新聞の俳壇選者を務めた現代俳句人。

金子兜太 句碑5 [句碑・歌碑]

市内に所在する金子兜太氏の句碑の紹介5回目。今回は、市内上中条の常光院境内に所在する句碑です。
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「たつぷりと 鳴くやつもいる 夕ひぐらし 」 出典:金子兜太句集『皆之』 季語:蝉 季節:秋
金子兜太氏が熊谷市に定住し、常光院を散歩コースの一つとして挙げられていることから、常光院貫主小久保康田が発願し、平成4年3月28日建立したものです。

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