「もの」と「ひと」の旅―2 いのちのかたち、勾玉 [紀行]
地球生命は進化という歴史の過程で様々な変革を遂げ、ヒトの出現に至っています。胎児は進化の変容を順にたどっているとされ、私たちの先祖は胎児の姿のような勾玉に命の形を感じ取り守護の想いを寄せてきました。その形を長く保つため美しく堅牢な石材として硬玉(ヒスイ)を素材として大珠や丸玉・勾玉が造られています。既に縄文時代には出現し、弥生から古墳時代の墳墓や古墳などの遺跡から発見されています。発見状況から限られた人物に伴う貴重品であったことが推定されます。
永らくヒスイの産地は忘れ去られていましたが、昭和時代になりその産地が新潟県糸魚川や姫川周辺にあることが再発見されました。市域で出土する古代のヒスイ製の玉類の多くはこれらの地域で採取されたものと考えられています。
妻沼飯塚南遺跡から出土した「ヒスイの勾玉」は白色半透明で緑色が淡く筋雲状に所々に混ざる質感から現在の姫川のヒスイによく似ているように思います。このヒスイ勾玉が熊谷市飯塚にやってきてた経路やかかわった弥生人については、共に発見された土器が長野県北信部の影響を持つ土器であることから、稲作農耕の伝番者あるいは開拓者の一団の長に当たるひとが身につけていたと考えられるでしょうか。
永らくヒスイの産地は忘れ去られていましたが、昭和時代になりその産地が新潟県糸魚川や姫川周辺にあることが再発見されました。市域で出土する古代のヒスイ製の玉類の多くはこれらの地域で採取されたものと考えられています。
妻沼飯塚南遺跡から出土した「ヒスイの勾玉」は白色半透明で緑色が淡く筋雲状に所々に混ざる質感から現在の姫川のヒスイによく似ているように思います。このヒスイ勾玉が熊谷市飯塚にやってきてた経路やかかわった弥生人については、共に発見された土器が長野県北信部の影響を持つ土器であることから、稲作農耕の伝番者あるいは開拓者の一団の長に当たるひとが身につけていたと考えられるでしょうか。
1 飯塚南遺跡の勾玉 | 2 一本木前遺跡(東別府)のヒスイ勾玉―古墳時代 |
3 飯塚南遺跡の壺形土器 |
2019-06-05 09:00
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