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旅の記憶‐17 ―路をたどる宗教者― [紀行]

 道の語源は人首をかざして魔物を避けながら進んだ場所が人の通行する場所になったとされます。私見では道はまだ知られていない土地への通路であり、「未知」の世界をつなぐ意味からも「みち」とするのではないかと考えたりします。また、「路」は整備された通路と考えます。
 古代には、朝廷の主導で地方と都を結ぶ陸の道、海の道が造られ、要所に駅や津という交通施設が置かれました。朝廷の管理する「官道」と、住民が交易や日常的に使う道もあって、列島に葉脈のように広がっていました。古代武蔵国は東山道と東海道が官大道になります。
 中世では鎌倉に幕府が置かれたことにより鎌倉道が整備され、人馬物資の移動もより盛んになり、上は貴族や武士から下は庶民や流浪の宗教者と言われる「聖」まで諸国を通行していました。時宗開祖の一遍は諸国を巡り「南無阿弥陀仏」の賦算(ふさん)を60万人の人々に手ずから配布する願いの元、終生を旅に生きました。亡くなるまでにおよそ250万人に達したといわれています。時宗第二祖の「真教」(下記パンフ肖像参考)は師と同じく全国を巡り、熊谷市域にも足跡を残しています。当時の「村岡」に滞在したり「浅提(せんだいと読んで市域の「千代」と想定される。)」に訪れていることが、『遊行上人縁起絵』第7巻第10巻にみえます。埼玉では鎌倉道に沿った嵐山町川本町深谷市に時宗寺院が分布する特徴があります。
 詳しく知りたい方は、折よく、下記の特別展が11月10日まで開催されています。

写真1 時宗74代遊行上人「他阿真円上人」 大正8年生 が、妻沼聖天山に訪れた時(2015.9.12)に戴いた「南無阿弥陀仏」の賦算。開祖一遍上人以来、この賦算をあまねく人々に手ずから渡したという。
image001s.jpg 真教と時衆s.jpg
写真1 賦算「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」 パンフ 【特別展】時宗二祖上人(にそしょうにん)七百年御遠忌(ごおんき)記念 真教と時衆
神奈川県立歴史博物館


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