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旅の記憶‐13 那須野の開拓へ 1 -熊谷人の先人- [紀行]

 明治維新後、それまで土地に縛り付けられていた多くの農民は基本的に移動の自由が保証されました。近代国家建設への道を急ぐ政府の新政策に、多くの人々は戸惑いを見せながらも、新時代の到来を歓迎した人々もまた多かったようです。そのような開明的な一人であった荻野吟子は医師となり北海道に渡ったことはよく知られています。
 そのような郷土人の足跡を紹介します。ところは、栃木県那須野ヶ原、現在は牧場や農場が広がり、高級リゾート地としても知られています。しかしこの地域は明治時代以降の厳しい開拓事業により完成されたものです。その事業に市域の人々が深く関与していました。那須野ヶ原の開拓事業は明治政府の肝いり事業の側面もあり、政府高官や財界人も事業にかかわっていました。その一人に内務省出仕の吉田市右衛門(下奈良―第5代 市十郎)がおり、地域の繋がりから吉田二郎(四方寺)や稲村貫一郎(上川上)、八木原市三郎(上川上)、長谷川敬助(北河原)、中村孫兵衛(上中条―後の大里郡長)らも参加していました。彼らの開拓地は『埼玉開拓』とも呼ばれ、現在も「那須塩原市埼玉」として現地に、地図に残っています。
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写真1 那須連山の山麓に広がる埼玉開墾地の現況 区画された耕地と集落が散在する。(グーグルアースより転載)
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写真2 吉田市右衛門宗載 肖像(後 市十郎と改める) (1845~1906)
維新政府に認められ内務省に出仕する一方、多くの社会事業に尽くした。
右写真 那須開墾社からの原野地割あて状

※参考 奈良の吉田家は初代「宗以(むねとも)」、2代「宗敬(むねたか)」、3代「宗敏(むねとし)」、4代「宗親(むねちか)」、5代「宗載(むねとし)」と続き、市域や近隣の水害被害、飢饉などへの救済や食料援助、様々な社会福祉・慈善寺事業を続けた稀有の人々である。吉田家には初代以来「華美を慎み諸費を倹約して社会公共のため尽くせ」「家産の三分の一を公益に供すべし」などの遺言や家訓が代々守られ実行されていた。奈良「集福寺」に代々の墓所があり「埼玉県指定史跡」となっています。

参考図書 2014「熊谷集福寺所在の吉田家墓所」熊谷市史研究 第6号
     2014『吉田市右衛門家文書「記録」』熊谷市史資料集1
     2019『吉田市右衛門家文書2「諸事纂要」』熊谷市史資料集5―子孫への家訓を掲載している。
     肖像と文書写真は1934『吉田家五世の事蹟一斑』より転載
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