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講演会「金子兜太俳句と『定住漂泊』の思想」 【熊谷市名勝「星溪園」】  [句碑・歌碑]




 2019年2月24日に熊谷市名勝「星溪園」において開催した俳人・金子兜太氏の一周忌行事である講演会「金子兜太俳句と『定住漂泊』の思想」の様子を収録し、YouTubeの江南文化財センター・サイトに掲載しました。金子兜太氏の俳句にある文学や思想に着目し、その根底にある「定住漂泊」というキーコンテクストとは何か考える内容になっています。どうぞ、ご参照ください。





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石原八束句碑「風の餘燼の落葉月夜となりけらし」 [句碑・歌碑]


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石原八束句碑
「風の餘燼の落葉月夜となりけらし」

妻沼聖天山北側にある妻沼公民館前に建立された俳人・石原八束の句碑です。昭和50年(1975)に堀越敬紀ら有志による句碑建設会が中心となり建立が果たされ、本人による独特の揮毫が印象的です。句は句集『空の渚』に所収された代表作の一つです。裏面の説明は熊谷の書家、柴田侑堂が担いました。石原八束(1919-1998)は飯田蛇笏や三好達治らに師事し、俳誌「秋」を主宰しました。現代俳句に叙情性をもたらしたことで知られ、芸術選奨文部大臣賞など数々の高い評価を得ています。






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クマガイソウの歌碑建立について [句碑・歌碑]

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2014年5月、星溪園で花を咲かせたクマガイソウ


 熊谷ゆかりの武将、熊谷次郎直実の名を冠したクマガイソウの保存が1970年代から地元の愛好団体を中心に続けられてきました。クマガイソウは「熊谷草」とも表記し、花の形が、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将・熊谷次郎直実が矢などを防ぐために馬上で背負っていた母衣(ほろ)の形に似ていることから名付けられたものです。
 元来、熊谷ではクマガイソウは自生していませんでしたが、熊谷の名を冠する花の保存のための機運が高まり、1979年に熊谷草保存会が結成され、熊谷の各地に株を植栽し、花を咲かせる活動を進めてきました。
 そのような中、戦時中に東京の自宅が焼失し、熊谷に疎開していた歌人で人形作家の人間国宝・鹿児島寿蔵(じゅぞう)(1898~1982)が、1980年5月に熊谷市の星溪園を訪れています。今後植栽する予定であったクマガイソウと、地元での保存活動に思いを寄せて、「熊谷草なくてかなはじと星池に植ゑて福布(ぶ)くしき花を咲かしむ」
(熊谷草がないと寂しくもあった星溪園に熊谷草を植えてふくよかな花を咲かせることだろう)という短歌を残しています。
 その後、熊谷草保存会は名勝「星溪園」や市内各地などへの植栽を続けましたが、市内での生息地は減少の一途をたどり、現在では熊谷市内から姿をほとんど消しました。植生した株も根付かず、夏場の高温環境なども影響し、保存活動も難しく2014年に熊谷草保存会は解散しました。
 解散から5年を迎えるあたり、熊谷での熊谷草の保存活動を顕彰することを目的として、鹿児島寿蔵の星溪園で詠んだ熊谷草を主題にした短歌を碑にすることになりました。
 この歌碑建立に向けて呼びかけ人を中心に寄附募集を始めている。寄付は一口1,000円で60万円を目標に、来年2月末まで募集しています。
 寄附募集についての問い合わせは、事務局の金子さん048-521-7157までお願いします。 寄附の振込用紙は星溪園など市内各所に設置されています。





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「斎藤別当実盛公敬仰会」文化講演会の動画公開 [句碑・歌碑]





 9月に妻沼中央公民館で開催された「斎藤別当実盛公敬仰会」文化講演会「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」及び妻沼八木節、詩舞「実盛慕情」の動画を江南文化財センターのYouTubeサイトにアップし公開しています。実盛と芭蕉のつながりと妻沼の俳諧文化への系譜について思いを馳せていただけたら幸いです。



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斎藤別当実盛公敬仰会・文化講演会「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」 [句碑・歌碑]

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文化講演会「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」の様子

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妻沼東・西中学校の生徒による詩舞「実盛慕情」


 9月9日(日)、熊谷市妻沼中央公民館2階大会議室にて、平安時代末期の武将、斎藤別当実盛の顕彰団体である斎藤別当実盛公敬仰会による文化講演会が開催されました。講演会では「斎藤別当実盛と妻沼地域の句碑・俳諧文化」をテーマに、斎藤別当実盛の死に触発され江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」と妻沼聖天山に建立された句碑などについてお話をしました。
 芭蕉は「奥の細道」の紀行中に、小松(石川県)の多太神社を訪れ、斎藤実盛の遺品の一つである兜を目にしました。幼い木曽義仲の命を救った実盛でしたが、年を経て平家方として義仲と戦わざるを得なくなる状況になります。白髪を染め若武者と見せ出陣するが討たれてしまいました。この伝説に思いを寄せて芭蕉はこの俳句を残しました。 「意に添わぬ戦いに出なければならなかった実盛は、なんといたわしいことだ。この兜の下のきりぎりす(今のこおろぎ)も、その悲しみを思い鳴いているようだ」という句意となります。当初は「あなむざん」という冒頭でしたが、『奥の細道』に編纂される際に同句のように「むざんやな」に変更されたと伝わります。
 その他、同会場では、妻沼八木節保存会による「斎藤別当実盛公」のほか、エプロンスィングによる文部省唱歌「斎藤実盛」、妻沼東・西中学校の生徒による詩舞「実盛慕情」の披露などがありました。講演会には約100名の来場がありました。



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金子兜太 追悼の集い [句碑・歌碑]

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金子兜太氏生前の映像

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宮本町太鼓愛好会による秩父音頭と秩父囃子の演奏

 9月2日、埼玉県桶川市のさいたま文学館文学ホールにおいて、本年2月に逝去された金子兜太氏を偲ぶ会として、埼玉文芸集団・さいたま文学館共催による「金子兜太 追悼の集い」が開催されました。第1部「金子兜太を偲ぶ」では、生前の映像などが上映され、兜太氏が歌う「秩父音頭」の名調子が印象的でした。第2部「金子兜太を語る」では兜太氏に師事した俳人の高野ムツオ氏による講演があり、兜太の名句についての解説などがありました。第3部「金子兜太を送る」では、宮本町太鼓愛好会による秩父音頭と秩父囃子の演奏がありました。秩父音頭は兜太氏の父である金子伊昔紅氏によって再興された歴史があります。会場は満席となり兜太氏に対する多くの方々の思いを感じることができました。また資料の一つとして熊谷の句碑リーフレット「熊谷句碑物語」が配付され、熊谷に根付く俳句文化についてご紹介することもできました。今後においても熊谷の自然や歴史を彩る兜太氏の俳句について発信できたらと思います。







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猪俣千代子句碑(大我井神社) [句碑・歌碑]

市内妻沼の大我井神社境内に建てられている猪俣千代子句碑を紹介します。
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「武蔵野に 明日は初日と なる夕日」
平成14年(2002)、猪俣千代子先生句碑建立委員会により建立。

猪俣千代子(1922-2014):大正11年 埼玉県生。昭和26年 「楪」入会、「寒雷」加藤楸邨(1905-1993:俳人・国文学者)に師事。「寒雷」「杉」同人。 句集に「堆朱」「秘色」「螺鈿」「幡羅」「太我井」他がある。

芭蕉句碑(観清寺) [句碑・歌碑]

市内弥藤吾の観清寺に建てられている芭蕉句碑を紹介します。
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「雪といふ 物かあるそ 今年竹」
今年竹は夏の季語で、若竹のこと。夏の若竹に、冬には雪という厳しいものがあると教える句。
「はせを」(芭蕉)と刻まれており、芭蕉38歳過ぎの句と思われますが、出典不明です。
建立:蒼海堂濤静
下部に地元俳人10人の句が刻まれています。昭和10年(1935)建立。

関根山草句碑 [句碑・歌碑]

市内中奈良の常楽寺境内に建てられている関根山草の句碑を紹介します。
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「寒月や 五合ばかりの 米をとぐ」と刻まれています。
関根山草は、明治・大正期の僧。常楽寺十八世石嶺老師に訓育を受け、大正7年東京亀有の見性寺住職となる。俳句を好み、中山稲青に師事し、大正15年頃より俳誌「睡蓮」を主催した。この句は、関根山草が常楽寺に在りし頃の句。昭和35年建立。常楽寺住職重道による誌。句の書は関根山草。

中山稲青(1880-1945):俳人。本名健三郎。埼玉県生。農業に従事する。俳句ははじめ大野洒竹(1872-1913)「糸の翠風会」に属し、のち日本派に転じ正岡子規(1867-1902)の指導を受ける。明治35年俳誌『アラレ』を創刊し9年間存続した。『アラレ』廃刊後、『睡蓮』『無花果』『善』等を主宰する。

鹿児島寿蔵歌碑 [句碑・歌碑]

市内上之の龍淵寺に建てられている鹿児島寿蔵の歌碑を紹介します。
kagosima.jpg歌碑
「鐘楼に 新藁つみて にぎはしき み冬とぞ思ふ 上之のみ寺」
昭和51年、寿蔵を熊谷に招いた棚沢慶治が発起人となって建てられたものです。
kagosima2.jpg壽蔵 印

鹿児島寿蔵(1898-1982):人形作家・歌人。福岡市生まれ。有岡米次郎に博多人形製作を学ぶ。1932年紙塑人形を創始、1933年日本紙塑藝術研究所を開き、1934年人形美術団体甲戌会を結成。アララギ派の歌人でもあり、島木赤彦・土屋文明に師事し、1945年短歌雑誌『潮汐』を創刊する。1961年紙塑人形の人間国宝となる。昭和20年東京田端の自宅が空襲で焼失し、熊谷在住のアララギの歌人・棚沢慶治の計らいで、市内上之に疎開し、7年間居住した。その後、昭和55年に熊谷を訪れ、星渓園で「熊谷草」の歌を詠む。

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