遺物整理の現場から 9 ―瓦の産地はどこか― [整理作業]
「御」はヘラ描で書かれ、平瓦と丸瓦の両者に確認されます。瓦の文字は生産者を明示するために記されたと考えられることから、生産を割り当てられた郡・郷と個人の協力者の名などに分けることができます。「御」平瓦は薄めの粘土板を使い布目と縄叩きの残る良質な製品で9世紀中ごろに造られたと推定されます。この時期に先の特徴を持つ瓦を造った場所は近隣では比企丘陵の南部に位置する嵐山町・鳩山町・ときがわ町の窯跡が知られており、中でも瓦製造工房跡の発見された雷遺跡と赤沼・新沼・金沢・篩新田の諸窯跡で造られたと考えています。「続日本後記」には承和5年(845)に武蔵国分寺七重塔再建に関する記事がみえ、先の遺跡はこの瓦生産に対応した遺跡であったと考えられています。
寺内廃寺から出土する多くの瓦もこの時期に造られたものが主体であることから、武蔵国分寺に納入される瓦の一部が寺内廃寺にもたらされたようです。その背景には、武蔵国分寺七重塔の再建にかかわった男衾郡大領「壬生吉氏」の強い関与が考えられ、この時期に壬生氏の氏寺(寺内廃寺)を大規模に改修した際に使われた可能性があります。
寺内廃寺から出土する多くの瓦もこの時期に造られたものが主体であることから、武蔵国分寺に納入される瓦の一部が寺内廃寺にもたらされたようです。その背景には、武蔵国分寺七重塔の再建にかかわった男衾郡大領「壬生吉氏」の強い関与が考えられ、この時期に壬生氏の氏寺(寺内廃寺)を大規模に改修した際に使われた可能性があります。
寺内廃寺金堂・塔の想定復元(江南文化財センター展示中) |
2021-06-04 09:46
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