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実盛供養塔と言われた板碑 [その他]

 古代末から中世の社会では死後への恐怖から、浄土への再生を強く希求していました。なかでも阿弥陀如来への信仰は、上は貴族から下は庶民までその思いはすがりつくような強烈なものでした。実際、藤原氏などの貴族たちは六勝寺や平等院などの浄土庭園を備えた寺院の建築から、阿弥陀像の造像や仏画、写経、参籠(墓参りなど)、経塚、石塔の製作などに狂奔していました。
 規模の大小、財力の差はあれ、市域でもこのころに武士を開基とする寺院の建立や、経塚、そして供養塔の造立が多数見られ、新興宗教の流布とともに板碑などの多くの石造物の建造へと拡大していくようです。熊谷直実が浄土宗を開いた法然に帰依したことはよく知られていますが、浄土真宗を開いた親鸞に帰依した関東の武士たちも多かったようです。
 熊谷妻沼地域(長井荘の区域)には、特徴的な仏教遺物で「善光寺式阿弥陀三尊画像板碑(写真1)」という型式の石造物が集中するという特徴があります。碑面は光背の形に彫り窪め、阿弥陀三尊像を七体の化仏とともに浮彫(半肉彫)に表現しています。銘文は現在では確認できませんが、刻書ではない可能性もあります、その場合漆の下地に五彩、金銀彩を施した華麗な姿に彩られ、覆屋か小堂に祀られていたのでしょう。「地獄草紙」に見える小仏塔に近いものがあると思います。当初は経塚と並び立っていた可能性もあります。
経塚・仏塔の建造から聖天堂の開創にあたっては、この地を基盤の一つとしていた斎藤実盛と類縁の一族が関わったと考えています。なお、この板碑と同形の板碑が当時の利根川河口に当たる浅草で発見されていることから、妻沼と東京湾を結ぶ利根川を水路とした経済的・歴史的背景が隠れているように思えてなりません。
板石塔婆_370x555.jpg 福寿院板石塔婆_370x555.jpg
埼玉県指定有形文化財(考古資料)
「板石塔婆(善光寺式三尊像)」
(※写真1)
熊谷市指定有形文化財(考古資料)
「福寿院板石塔婆」
※他に、玉洞院 能護寺 個人宅に保存されている。東京都浅草の法源寺には、康元2年(1258)銘とされる板碑が所在していた(戦災により所在不明)。
餓鬼草紙にみえる画像塔婆370x555.jpg
「餓鬼草紙」にみえる画像塔婆(東京国立博物館蔵)

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