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石仏熟覧2 「王子塚石仏」のはなし 1  ―石龕仏― [その他]

 王子塚石仏は弥藤吾地内に所在した王子塚と呼ばれた塚上にありましたが、塚は古墳ではないかと考えられていたことから、昭和40年代に発掘調査が行われ少し離れた路傍に移されました。凝灰岩質の砂岩と思われるやや軟質の石材を用いており、石仏製作用に群馬県方面から運ばれたものと思われます。
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写真 王子塚石仏 正面 写真 菅尾磨崖石仏 大分県
 石仏は長年の風雪により風化が進み、失われた左上部片の外、3つの破片を繕い覆い屋に納められています。縦160㎝、横110㎝、厚さ35㎝ほどで、石材の前面を106×84cm程の方形に約12㎝彫下げた仏龕を造出し、坐像を取り巻く額縁状を呈しています。仏龕の縁から仏身が食み出ないことから切り出された平石を加工していることが明瞭です。平安末から鎌倉時代の石龕仏などによく見られる造り方です。
 石仏に限らず時代を経た文化財はその所在する環境や材質により、遺存状態が異なることから単に風化や劣化の度合いを持って製作年代を決めることは適当ではなく、仏像の種類や肢体の彫塑などの表現と類例からから考える方が良いようです。
 王子塚石仏の風化はかなり進み仏身の細部や仏顔は失われ、衣装・装飾の痕跡がわずかに見られます。右手を膝前に伸ばし、左手は胸前に位置する姿勢と仏頭に残るこぶ状の隆起などの痕跡により「十一面観音」と判断されます。同様な例は少ないのですが、「菅尾磨崖石仏(大分県)」中に見ることができ、本来の姿は念珠を持つ右手を膝前に伸ばし、左手は胸前に華瓶を持つ坐像で、蓮華座から坐像の仏身を側面まで立体的に石材から浮き出すように彫られており、ふっくらとした丸みを持つ表現のようです。この作風の特徴は和様とも呼ぶ「藤原様式」と認められ、平安時代末期から中世初頭頃の製作と推定されます。木造仏では櫟野寺(滋賀県)坐像十一面観音があります。また、蓮華座の表現は同時代に造られた野原古墳出土の金銅仏にも共通するもので「吹き寄せ葺き」と呼ばれています。
 王子塚石仏は熊谷市域最古の石仏になる可能性が高く、造立にかかる当地の時代背景や武士・僧侶などの関係者に関心が向かいます。
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写真 王子塚石仏頭部右側面 蓮座右側に残る蓮弁の重なり
 頭部の瘤状表現の位置や配置から十一面観音の頭上面と推定される。
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写真 野原古墳出土の「宝冠阿弥陀坐像」と蓮台の蓮弁表現

参考 青木忠雄 1976「王子塚石仏について」『埼玉文化史研究』第9号
熊谷市2018『熊谷市史 通史編上巻』―原始・古代・中世―
 註
「藤原様式」は遣唐使廃止以降の日本で和風化が進んだ時期に造られた仏像に見られる、豊満でゆったりとした表現をいい、当時の生活様式や工芸品にも現れている「和風」という雰囲気や作風に含まれます。「大和絵」「和鏡」「仮名文字」などにこの様式が良く現れています。10世紀~12世紀のころ、末法の世の始まりとも信じられていたことから、念仏の唱和から写経・埋経(経塚の設置)や浄土庭園を持つ寺院の建立と浄土信仰による様々の事業が行われています。当時の権力者だった藤原氏から院政の最盛期にも当たっており、造られた寺院と仏像には、現存する浄土式寺院の宇治平等院と仏師定朝に代表される阿弥陀如来像など円満豊穣の仏像が多数造られました。この藤原様式の作風は鎌倉時代以降も好まれ、多くの藤原様(定朝様)仏像が造られたことから製作年代を考えるときには注意が必要になります(文―新井)。
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