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企画展のお知らせ [お知らせ]

 市内万吉に所在する「立正大学博物館」では、第14回企画展として「東国の埴輪と埴輪窯」を開催します(詳細は資料・立正大学博物館HPのとおり)。
 熊谷市には多数の古墳が残り、ユニークな姿の「おどる埴輪(野原古墳群)」や、端正な若人を思わせる「短甲武人埴輪(中条古墳群)」など全国でも指折りの埴輪が出土しています。また、近年の発掘調査では埴輪生産遺跡であった窯跡も市内から発見されており、熊谷産の埴輪についても研究が進められています。
 今回の展示では、埴輪と生産遺跡の資料や関連する埴輪を選んで紹介しています。
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(画像:立正大学博物館より)

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令和元年度星溪園俳句講座閉講式 [普及事業]


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 9月23日、令和元年度星溪園俳句講座の閉講式が行われました。9月下旬から当日までの計5回の講座でそのうち3回の出席があった受講者には修了書を授与しています。本年は7名の受講生に交付されました。講師を担当した熊谷俳句連盟の吉岡正雄会長は「俳句講座を通して今後も日常的に俳句を詠む習慣ができたら、視野が広がり、生活が豊かになる」と講評していました。毎年恒例となる俳句講座にはリピーターも多く、また来年の開講に向けて各受講者は再会を楽しみにしていました。



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文化の日「秋の茶会」 星溪園 [普及事業]


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文化の日、星溪園「秋の茶会」。松風庵での茶席の様子


 11月3日の文化に日に、熊谷市名勝「星溪園」にて、毎年恒例の熊谷茶道協会主催の「秋の茶会」が開催されます。表千家、裏千家、江戸千家による計5席のお茶席が設けられます。現在、星溪園では徐々に紅葉の季節を迎えようとしています。ぜひお越しください。

概要
『文化の日 秋の茶会』
日時:11月3日(祝) 10時~15時
会場:熊谷市名勝「星溪園」(熊谷市鎌倉町32)
全5席あり、星溪園入口で当日券を2000円で販売します。

問合せ 熊谷市立江南文化財センター 電話048-536-5062




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「熊谷歴史たてものレビュー ― 熊谷市の歴史的建造物を学ぶ ―」 [建造物]


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2019年10月23日、熊谷市立大麻生公民館にて、熊谷市の歴史的建造物について学ぶ「熊谷歴史たてものレビュー ― 熊谷市の歴史的建造物を学ぶ ―」が開催されました。熊谷市は国宝「歓喜院聖天堂」をはじめ多くの歴史的建造物が所在する「名建築」の宝庫です。名工達が建立した建造物が、長い時間を経て現在に至るまで保存され、熊谷の歴史や文化芸術の特色を明らかにしています。画像や図面などを用いて、建造物の概要を説明しながら、建物の文化財としての価値などを分かりやすくレビュー(評価、評論)しレクチャーする機会を提供しました。講師:熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹 主任(学芸員・埼玉建築士会歴史的建造物保全活用専門家・ヘリテージマネージャー)が担当し、約40名が参加しました。



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寺内廃寺の整理から―2 平安時代の籾の痕跡 [奈良平安時代]

 弥生時代の土器には籾跡圧痕の残ることが稲作の証拠として取り上げられますが、弥生時代以後も稲作は続けられています。ときおり、火災建物跡などから炭化したモミやおにぎりが発見されて話題となります。
 寺内廃寺から出土した土師器坏に籾跡痕が残っていました。坏に埋もれたように深く残る圧痕から、坏に付着したというより埋め込んだという印象を受けます。縄文土器には意図的に豆類を埋め込んだ例も知られ、特別に作られた品ではないかとの推定もあります。寺内廃寺から出土した坏に籾とはどんな意味があったのでしょうか。なお、この坏は現在のごはん茶碗のような手持ちの容器で、この形は寺内廃寺では灯明血にも使われています。
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写真1 土師器坏 左側―外面、右側―内面 籾痕が残る

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写真2 同じ種類の坏 この坏は灯明皿に使われていた。

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写真3 籾痕の拡大  米の収穫期頃に土器を造っているとも推定できます。
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出土瓦から―4 ―指紋事例の追加― [奈良平安時代]

 寺内廃寺の東院集落は金堂。塔のある伽藍地の東から東北に広がり溝で区画されています。その内部には竪穴住居や堀立柱建物、鍛冶炉などが確認され大量の遺物が出土しています。同所から出土した遺物にも工人の指紋が残る瓦や土器がありました。
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写真1 須恵器甕の破片に残る指紋  右は拡大。拇指か

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写真2 平瓦に残る指紋    右は拡大。拇指か


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寺内廃寺の整理から―1 ―古代の坏は左利き― [奈良平安時代]

 寺内廃寺の東院集落の遺物整理から気付いたことを紹介しています。平安時代初期以降(9世紀代)、ほとんどの須恵器坏は底部に回転糸切離痕がそのまま残っています。製作地は南比企窯跡群と末野窯跡群からもたらされるもので、時代が下がるほど末野窯か、未確認の末野系窯ではないかと考えています。寺内廃寺の出土品の場合、底部や体部に墨書文字の痕跡が残ることが多いので、舐め回すように観察しています。
 写真1~4で見るとおり、糸切り痕の位置が左右に偏っている例がいくつか出てきました。この糸切の偏りは何を示すかというと、ろくろの回転方向が右回転か左回転かということです(註)。この差は工人が右利きか、左利きかということを示すものと思います。今まで数百の須恵器坏を見てきましたが、ほとんどの糸切痕は写真3,4に区分されます。つまり、右回転、右利きの工人による製作と思われます。写真1、2のような左回転、左利き工人の製品はちょっと珍しいと思います。
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写真1 写真3
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写真2 写真4

 ※(註)右回転と左回転 ろくろの回転の定義は作業者から見て(上から見て)区別する。時計回りを右回転、逆時計回りは左回転になります。粘土柱と製品を回転のまま糸を輪掛けし左右に絞るように手前に引くと粘土柱と引き上げた製品が糸によって切り離せる。このとき粘土柱と製品の坏底部に回転により偏った弧線が糸切痕として残る。坏底部の糸切痕が左に偏っているものは右回転、右に偏っているものは左回転になります。
 日本では現在までほとんど右回転が主流ですが、中国では左回転が主流のようです。この左右の差は単に利き腕の差だけではないような気もします。
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浄安寺「お地蔵様の日」(10月23日:熊谷市御正新田) [仏像]


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2013年9月の竜巻で全壊した地蔵堂から「救出」された後に修復を終え、2016年10月に一般公開された「浄安寺千体地蔵」(市指定有形文化財)が、本年も「お地蔵様の日」として10月23日に公開されます。浄安寺には、現在約650体が奉納されています。同日夕方は、参道に灯篭が置かれ、幻想的な雰囲気を感じることができます。先日も熊谷では台風による被害などもあり、文化財の保存に対して改めて意識する契機となっています。


日時:2019年10月23日17時から19時頃
場所:浄安寺(埼玉県熊谷市御正新田248-1)
入場無料





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旅の記憶‐16 那須野の開拓へ 4 -開拓地のその後- [紀行]

 現在開墾地周辺地を見渡すと屋敷森を負う大きな住まいと南下がりの傾斜地に水田と畑が広がり、水稲や野菜が造られていることが窺われます。南方には集落の子供たちが通う「埼玉小学校」をはじめ公共施設が位置していました。さらに熊谷とのかかわりを示すモニュメントが大通りの一角にありました。太平洋戦争時に造られた「那須野陸軍飛行場」の巨大な石碑です。文面を読むと「陸軍熊谷飛行学校塩原分教所」とあります。
 どうして熊谷飛行学校の分校が那須野に造られたのかは定かではありませんが、広範囲の土地が確保しやすかった点や飛行距離や飛行時間の上で教習基地として適当な環境であったと思われます。埼玉開墾地の一角を占めた飛行場基地は戦後に廃止、再び開墾され現在に至っています。所々に基地跡施設の一部が残るようですが、この大きな碑と埼玉開墾地の歴史を知り熊谷との繋がりを強く感じたところです。
 那須野を訪問する機会がありましたら「那須野が原開拓資料館」や「那須塩原市埼玉」付近も足を延ばしてはどうでしょうか。
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写真1「那須野陸軍飛行場」の巨大な碑

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写真2 「埼玉開墾地」と「陸軍那須飛行場」跡 (グーグルアースより転載)
    飛行場は中央左半の新しい区画をしめていた。
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旅の記憶‐15 那須野の開拓へ 3 -熊谷から新天地へ- [紀行]

 那須東原の開拓事業は明治23年頃にはめどがつき、開墾地での本格的な農業経営が始まることになります。生活の基盤か整ったこの地には「埼玉」の名が付けられ、小学校などの公共施設にも明示されています。また、小字に相当する地域名には「稲村・四方寺・奈良・上中条・北河原・熊谷・行田」などが存在しています。開拓地に郷土の地名を付けたのであり、開拓事業に当たった熊谷の人々の想いが伝わってきます。
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写真1 埼玉集落の案内板 (左下方に集落の区分が示されている―写真2へ)
写真2 集落に付けられた熊谷の地名― 通り名には右側には赤字で「さきたま」と記し、 これを頭文字として「わやか西通り」「ぼうの稲村通り」「のしい中通」 「ごころ東通り」とまちづくりの思いが標語となっています。

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写真3 埼玉開墾地の北からの現況  整然と区画された耕地と防風林を背後にした
集落の様子。かつてこの一帯は原生林に覆われていたと思われる。
(グーグルアースより転載)
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