肥塚古墳群・肥塚館跡発掘調査1 [発掘調査]
10月から始まった調査が進み、古墳時代後期の竪穴住居跡の調査を行っています。
住居の規模は大きく、5m四方ないしはそれ以上の規模があります。堆積した土中からは、量は多くないですが、土師器坏や高坏などの土器、石製の紡錘車などが出土しています。特徴的なのは、堆積した土に多くの礫が含まれていることです。
ちなみに、遺跡名には、古墳群、館跡とありますが、本調査地点では集落跡が発見されていて、過去のこの周辺の調査でも同様です。
池上地区ほ場整備地内発掘調査について(鶴卷遺跡) [発掘調査]
久々に発掘調査についての日記です。
先週から市内池上地内で鶴卷遺跡の調査を開始しました。
この遺跡は一昨年に新規登録した遺跡で、池上遺跡の東、行田市の小敷田遺跡の北に位置し、近隣遺跡での過去の調査成果から注目される遺跡です。
今回の調査は埼玉県で実施する「ほ場整備事業」の一環で新設される水路部分の発掘で、幅約3m、縦に数百mの調査範囲となります。
鶴卷遺跡と、池上遺跡にまたがる水路部分を、2か年で数か所調査する予定です。
まだ、数日の調査ですが、弥生時代後期から中近世に至るまでの遺物が確認され、中には田下駄、杭などの木製品なども確認されています。現在までに古墳時代前期から奈良・平安時代の遺物が比較的多く検出されており、S字口縁台付甕や、有段口縁坏、高坏などが確認されています。
検出されている遺構の多くは、溝跡や沼地?(河川跡?)で住居跡などの検出は今のところありません。
湧水の影響が大きく、大変な現場ですが、今後の成果をご期待ください。
調査範囲 風景
S字口縁台付甕検出状況
先週から市内池上地内で鶴卷遺跡の調査を開始しました。
この遺跡は一昨年に新規登録した遺跡で、池上遺跡の東、行田市の小敷田遺跡の北に位置し、近隣遺跡での過去の調査成果から注目される遺跡です。
今回の調査は埼玉県で実施する「ほ場整備事業」の一環で新設される水路部分の発掘で、幅約3m、縦に数百mの調査範囲となります。
鶴卷遺跡と、池上遺跡にまたがる水路部分を、2か年で数か所調査する予定です。
まだ、数日の調査ですが、弥生時代後期から中近世に至るまでの遺物が確認され、中には田下駄、杭などの木製品なども確認されています。現在までに古墳時代前期から奈良・平安時代の遺物が比較的多く検出されており、S字口縁台付甕や、有段口縁坏、高坏などが確認されています。
検出されている遺構の多くは、溝跡や沼地?(河川跡?)で住居跡などの検出は今のところありません。
湧水の影響が大きく、大変な現場ですが、今後の成果をご期待ください。
調査範囲 風景
S字口縁台付甕検出状況
諏訪木遺跡3-10 [発掘調査]
久しぶりに発掘に関する報告として、道路改良事業に伴う発掘調査の状況をお伝えいたします。
3月中旬までの調査予定で調査は終盤となっています。
これまで確認されている主体的な遺構は、弥生時代中期の方形周溝墓2基と、後期の土器棺墓?が2基(底部に穿孔有)、北接する寺院の中世の内堀跡(昨年度報告の諏訪木遺跡ⅢのSD01 の延伸部)、その直下に木枠の井戸跡(かわらけ多数検出)が確認されています。
弥生時代後期の土器棺墓?(底部に穿孔有)
溝跡底部に井戸跡の木枠
井戸上部に多量のかわらけ
終盤に差し掛かり、雨の天候となっていることから、無事終了することができるかの瀬戸際の調査となっております。来週が好天となることを祈って、簡単な報告とさせていただきます。
3月中旬までの調査予定で調査は終盤となっています。
これまで確認されている主体的な遺構は、弥生時代中期の方形周溝墓2基と、後期の土器棺墓?が2基(底部に穿孔有)、北接する寺院の中世の内堀跡(昨年度報告の諏訪木遺跡ⅢのSD01 の延伸部)、その直下に木枠の井戸跡(かわらけ多数検出)が確認されています。
弥生時代後期の土器棺墓?(底部に穿孔有)
溝跡底部に井戸跡の木枠
井戸上部に多量のかわらけ
終盤に差し掛かり、雨の天候となっていることから、無事終了することができるかの瀬戸際の調査となっております。来週が好天となることを祈って、簡単な報告とさせていただきます。
試掘調査の200日から―3 [発掘調査]
山林内で見つけた切り株から木の歴史を考えました。この木はヒノキで直径約60㎝、約70年の時を刻むこの地の証人(木霊)です。この木の生長を概観すると、生まれたのは約70年前で、昭和22年ころ、戦後の木材需要に応じて多くの有用な木が伐採された後に、生育を期待されて植林された一本でしょう。切り株の形は大きくゆがんでいて、一見大地に力強く根を張っているようです。しかし年輪をよく見るとその成長の単位がある時期から不定形です。陽ざしを求めて何とか伸び太くなろうともがいている様が鮮やかに描かれていると思います。 植林から約30年、年輪は整った同心円を描いて成長しています。日照に恵まれ藪草に覆われることもなく、すくすく成長したことがわかります。当時、山林の落ち葉は掃き集められ、堆肥や燃料に、藪や小木は粗朶として各家庭の燃料として消費されました。木材も同様で家屋敷などの建築材に使われています。
昭和50年代を過ぎると年輪は乱れ歪んでいます。伸びたり、止まったりと年輪は楕円というより折線円のようです。これは、環境の大変化を示しています。この頃、市域でも木材コストの問題や植林者の減少から山林の管理放棄が顕在化しています。加えて松喰虫による松枯れが山林の荒廃を加速しました。この反省から緑再生、里山保全と山林の保護が模索されてきました。 平成29年にこのヒノキは伐採の時を迎えましたが、柱にはなれませんでした。聞けば粉々のチップにされて土壌改良などに使われるそうです。この地に注ぐ陽ざしは太陽光パネルになります。
ヒノキの切り株 ピンポールは南北方向(上方向が南)
昭和50年代を過ぎると年輪は乱れ歪んでいます。伸びたり、止まったりと年輪は楕円というより折線円のようです。これは、環境の大変化を示しています。この頃、市域でも木材コストの問題や植林者の減少から山林の管理放棄が顕在化しています。加えて松喰虫による松枯れが山林の荒廃を加速しました。この反省から緑再生、里山保全と山林の保護が模索されてきました。 平成29年にこのヒノキは伐採の時を迎えましたが、柱にはなれませんでした。聞けば粉々のチップにされて土壌改良などに使われるそうです。この地に注ぐ陽ざしは太陽光パネルになります。
ヒノキの切り株 ピンポールは南北方向(上方向が南)
試掘調査の200日から―2 [発掘調査]
試掘調査では歴史の一断面を知る土地の痕跡を発見する場合も多々あります。写真の三ヶ尻地内の試掘で現れた土層は明らかに人工的なもので、元々あった地山の黒色土を鋤取り、砂利混じりの土で埋め立てた固い整地層でした。時期を特定できる資料は出ていないのですが、昭和13年に開設された陸軍熊谷飛行場造成工事の一部と考えています。御稜威ケ原と呼ぶ野原に造られた熊谷飛行場は戦後の米軍占領基地から航空自衛隊熊谷基地と市街地や御稜威ケ原の工業団地に変貌しています。かつて、観音山付近まで広がっていた飛行場の大半は失われるか、地表からは見えにくい痕跡となって埋もれているようです。なお、このような地層は陸軍小原飛行場(昭和19年末に完成)の所在した江南地域の野原でも確認されています。
写真1 土層の状況
写真2 (昭和14年頃)熊谷飛行場に駐機する 練習機 通称「赤とんぼ」
写真1 土層の状況
写真2 (昭和14年頃)熊谷飛行場に駐機する 練習機 通称「赤とんぼ」
試掘調査の200日から―1 [発掘調査]
平成29年度も終盤にかかってきたところですが、11月までに約60件の試掘調査を市内各所で行ってきました。 試掘調査はすべて開発起因を前提にしたもので、第1位は住宅建設が最多で、18か所から住居跡や土坑などの遺構と遺物が見つかっています。すべて現状保存・記録保存(発掘調査)をしています。
第2位は太陽光発電施設の建設で、遊休地や山林の場合が多く対象面積は住宅建設地の約20倍に達します。本来の里山は管理された植林地ですが、現在は管理があまり及ばない藪状態の林地の場合が多く、開発適地とされているようです。1980~90年代前半のゴルフ場、工業団地など大規模な山林開発により自然喪失の問題が高まった時代を知る者には、再び緑受難の時期が来ているように思えます。
冬の山・伐採片付け後
第2位は太陽光発電施設の建設で、遊休地や山林の場合が多く対象面積は住宅建設地の約20倍に達します。本来の里山は管理された植林地ですが、現在は管理があまり及ばない藪状態の林地の場合が多く、開発適地とされているようです。1980~90年代前半のゴルフ場、工業団地など大規模な山林開発により自然喪失の問題が高まった時代を知る者には、再び緑受難の時期が来ているように思えます。
冬の山・伐採片付け後
諏訪木遺跡3-9 [発掘調査]
11月28日から12月5日にかけて道路改良事業に伴う発掘の最後の調査区画の表土はぎを実施しております。この区画の調査が終了すれば、この道路改良事業に伴う発掘調査は終了し、2019年ラグビーワールドカップに向けての道路整備が本格的に始まります。
今回の調査面積はおよそ1,400㎡です。自然堤防に向かって緩やかな傾斜が確認でき、西から東への勾配が確認できる調査区です。
まだ遺構確認を行っていないため、詳細は不明ですが、南北軸の溝跡が数条、掘立柱建物跡?と推測できるもの、方形周溝墓(弥生中期から後期か?)が確認されています。
調査区を東から撮影
方形周溝墓(右のかご付近に上下方向、上部に左右方向で溝状遺構あり)
調査が進むにつれ、またこのブログで経過報告をさせていただきます。
今回の調査面積はおよそ1,400㎡です。自然堤防に向かって緩やかな傾斜が確認でき、西から東への勾配が確認できる調査区です。
まだ遺構確認を行っていないため、詳細は不明ですが、南北軸の溝跡が数条、掘立柱建物跡?と推測できるもの、方形周溝墓(弥生中期から後期か?)が確認されています。
調査区を東から撮影
方形周溝墓(右のかご付近に上下方向、上部に左右方向で溝状遺構あり)
調査が進むにつれ、またこのブログで経過報告をさせていただきます。
前中西遺跡発掘調査3 [発掘調査]
現在、市内上之に所在する前中西遺跡において、上之土地区画整理事業に伴い、当該遺跡の3か所目の調査が進んでいます。
この調査は、前回の2か所目の調査区に連続する箇所で、主に古墳時代後期の遺構・遺物が確認されています。
調査区の南端では、この時期の竪穴式住居跡が複数、折重なるように検出され、調査の手間がかかっています。
調査区全体(北から)
調査区南端の竪穴式住居跡の調査の様子
諏訪木遺跡3-8 [発掘調査]
前回報告した夏から秋へと季節が変わり、発掘するにはちょうど良い季節となりました。
道路予定地の発掘調査は現在も継続して実施しており、来年の2月までの予定で進めております。調査は区画ごとに分けての調査で、本日ちょうど調査が完了し、ドローンでの空撮を行いました。
調査区全景
この調査区からは主として溝跡が7条、方形周溝墓が3基、掘立柱建物跡が1軒、一乗院の旧参門と思われる柱跡が検出されています。
周囲がつながる溝跡が確認されました。底が平らな掘り方なので方形周溝墓か否かどうか悩ましいところです。
隣接する寺院の区画溝と推測される堀跡及び隣接して参門の柱跡と推測できる柱跡が3基確認されました。
翌日からは、北接する調査区へと移動し、河川跡と推測される遺構の掘り下げに着手する予定です。
道路予定地の発掘調査は現在も継続して実施しており、来年の2月までの予定で進めております。調査は区画ごとに分けての調査で、本日ちょうど調査が完了し、ドローンでの空撮を行いました。
調査区全景
この調査区からは主として溝跡が7条、方形周溝墓が3基、掘立柱建物跡が1軒、一乗院の旧参門と思われる柱跡が検出されています。
周囲がつながる溝跡が確認されました。底が平らな掘り方なので方形周溝墓か否かどうか悩ましいところです。
隣接する寺院の区画溝と推測される堀跡及び隣接して参門の柱跡と推測できる柱跡が3基確認されました。
翌日からは、北接する調査区へと移動し、河川跡と推測される遺構の掘り下げに着手する予定です。
大我井経塚の発掘調査2 [発掘調査]
大我井経塚の出土品は報告書に記載されていますが、実物を東京国立博物館で見学したことがあります。
経筒や和鏡、短刀などの金属製品とともに、土中にあっては腐朽してしまう有機質の遺物が出土していました。その一つの竹製品は「扇」であり、和鏡とともに女性の持ち物とされます。和紙は経筒の中に納められた「経典」(如法経―法華経の一部とされる)は密着して塊となっており、しかも風化して崩れやすく、とても開けるような状態ではありませんでした。しかし、この経巻は文字資料として、経塚造立の意図や関係者の名が記されている可能性が高い遺物です。
東大寺の大仏殿から発掘された経巻類は固着した文書で、その状態から「ろうそく文書」といわれます。この文書をなんとか開いたところ大仏開眼に列席した僧侶の名簿でした。万人に及ぶ名前がずらりと書かれていました。このように腐朽を免れ出土した経巻類などから実際に書かれた文字が判明する場合もあります。八王子市の白山神社経塚からは仁平四年(1154)の奥書が朱書された経巻が出土しています。
大我井経塚の経巻断片も朱書された文字が観察されました。この経典残闕を開き、読むことができれば、斎藤一族と結縁者の名が明らかになるのではないかと推定されます。将来、技術の進歩によって可能となる日が来るでしょうか。
3号経筒中の経巻の状態図 |
東大寺の大仏殿から発掘された経巻類は固着した文書で、その状態から「ろうそく文書」といわれます。この文書をなんとか開いたところ大仏開眼に列席した僧侶の名簿でした。万人に及ぶ名前がずらりと書かれていました。このように腐朽を免れ出土した経巻類などから実際に書かれた文字が判明する場合もあります。八王子市の白山神社経塚からは仁平四年(1154)の奥書が朱書された経巻が出土しています。
大我井経塚の経巻断片も朱書された文字が観察されました。この経典残闕を開き、読むことができれば、斎藤一族と結縁者の名が明らかになるのではないかと推定されます。将来、技術の進歩によって可能となる日が来るでしょうか。
バラバラの経巻 |
3号経筒の経巻 | 3号経塚の短刀 |