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Caution bee(蜂に注意!) [古墳時代]

 本日は、市民の方から宮塚古墳に蜂の巣がいるとの連絡を受け、注意喚起の看板を設置しに行きました。この古墳は、国指定史跡となっている全国的にも珍しい、方形の上に円形の墳丘をのせた形の「上円下方墳」と呼ばれるもので、7世紀末から8世紀初めころのものと考えられます。
古墳は現在森林となっており、蜂が活動するには最適な場所となっています。目撃者の情報によると大スズメバチという危険な蜂のようです。
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職員による作業風景
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設置看板
人間が刺される事故の多くは、餌場・巣に近づいたため、敵とみなした蜂が襲ってくるケースです。最も蜂が興奮しやすく凶暴となるのは、繁殖のピークである8~10月です。この時期の蜂は巣を守るため、近づくものに対し強い攻撃性を示します。
皆さん、今回の宮塚古墳のみならず、蜂が飛んでいるところ、注意喚起がされている場所は気をつけてください。

中条古墳群の発掘調査 [古墳時代]

 中島地区の発掘調査が終了しました。沖積地に営まれた集落の遺跡でしたが、現地表より約1.7m下から住居跡が現れました。ほぼ方形をした5軒の竪穴住居が一部重なっており、何度か建て替えがあったようです。古墳時代初頭(4世紀前半)にかかる時期で、この時代に特徴的なS字口縁台付かめ、有段口縁つぼ、小型器台などが多量に出土しています。これらの土器類は関東以西の地域に分布の中心があると想定される遺物で、これらの土器と種子を携えた人々が熊谷地方に移住してきたこと想像させます。
 また、特に貴重な発見は、土器を取り除いた床面から鍛冶炉が検出されたことです。つまりこの建物跡では鉄器を生産していたことがわかったのです。当時は、朝鮮半島からもたらされた鉄を素材に農具や武器を加工・製作していたと考えられています。実際に地方での加工現場が判明する機会は少なく、埼玉県では「行人塚遺跡(熊谷市成沢)」・「山崎遺跡(宮代町)」例とともに最古の列に加えられます。鉄器生産という先進技術の定着をうかがわせる鍛冶遺構の発見は、後の中条古墳群や北島遺跡にみる有力豪族の出現と集落の成長の元となる地域社会の成長を物語る有力な資料になると考えています。
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右手が1号住居跡完掘状況  床面に鍛冶炉が設置されていた。

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鍛冶炉の直上から出土した土器 有段口縁壺 器台 手前、S字状口縁台付甕

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床面に検出された複数の鍛冶炉跡 左側、直径約16㎝同心円状に焼けている。

とうかん山古墳 [古墳時代]

埼玉県指定記念物 史跡「とうかん山古墳」をドローンで撮影しましたので紹介します。
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とうかんやま古墳は、墳丘周囲の改変がみられ周溝も埋没していますが、市内最大の前方後円墳です。後円部直径37m、前方部長38m、全長75m。前方部は幅42mと大きく開きます。埼玉古墳群中の同時期の瓦塚古墳の規模に匹敵します。墳丘は、後円部で高6.2m。採取された埴輪から6世紀後半代の築造で、横穴式石室を埋葬主体部に持つと推定されています。
側面から見ると前方後円墳であることが良くわかりませんが、俯瞰すると墳丘の形が良くわかります。
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穿孔貝巣穴跡軟質泥岩 [古墳時代]

市内野原地区に所在する宮脇遺跡第1号住居跡(古墳時代後期後半)より出土した「穿孔貝巣穴跡軟質泥岩」を紹介します。
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長さ5.8cm、幅3.8cm程の大きさで、被熱により全体が赤化しています。
この「穿孔貝巣穴跡軟質泥岩」とは、耳慣れない石ですが、海岸の磯浜域に生息する穿孔貝という岩に穴をあけて自分のすみかにする種類の貝の巣穴の跡が残る泥岩のことで、近隣では、房総半島や三浦半島の海岸の泥岩層で確認することができます。
東京都八王子市神谷原遺跡、埼玉県川島町富田後遺跡、東松山市反町遺跡などで出土しています。
近年、坂本和俊氏は、製塩に関する遺物として注目しています(2015:「古墳時代東国の土器を使わない製塩と塩の流通痕跡」:埼玉考古50)。
坂本氏によると、この泥岩が広がる磯浜で海水を溜めるくぼみを掘り、そのくぼみに海水を溜めて乾かしたアマモを何度もしたしては乾燥させ、海水の塩分とアマモの表面の塩分が濃くなった時点で、アマモを薪と一緒に燃やして、灰・塩・熾きの混じったものをつくり、それを塩分が濃くなった海水の溜まっているところに掻きこみ水分を蒸発させて塩分の多く含む灰をつくり、それを握って灰の塊とし流通させた可能性を指摘し、この泥岩は、その灰に混じりこんで流通したもので、製塩土器を使用しない、製塩方法とその流通を示す遺物としています。
被熱し、穴の開いた石が出土した時は、用途が判らず、遺物として取り扱ってよいのか判断に迷いましたが、製塩に関する遺物の可能性があるという指摘により、発掘調査から14年が経ちますが、ようやく納得することができました。
ちなみに、宮脇遺跡の西には「」(熊谷市)、南側には「土塩」(滑川町)という地名が残されています。

報告書はPDF版を「熊谷デジタルミュージアム」の「読書室」内の「PDF文庫3」にて公開しておりますので、こちら(17.6Mb)をご覧ください。

馬形埴輪 [古墳時代]

明治9年に熊谷市上中条より出土した重文「馬形埴輪」のスケッチを紹介します。
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このスケッチも、前回紹介した大野雲外(1863-1938)が、明治31年嵩山房より出版された『日本考古図譜』に掲載したものです。
右側には、「埴輪 土馬 武蔵国埼玉郡上中条村ヨリ発見」、左側には「帝国博物館所蔵」、欄外下には「FIGUE OF HORSE MADE OF CLAY FROM AN ANCIENT SEPULCHRAL MOUND AT KAMINAKKAJO IN MUSASHI」と記されています。
スケッチには、馬の耳・タテガミ・前足・尻尾が欠損しており、修復前の状態であることがうかがえます。また、「短甲武人埴輪」が根岸家所有となっていたのに対し、この「馬形埴輪」は既に帝国博物館所蔵となっています。

短甲武人埴輪 [古墳時代]

明治9年に熊谷市上中条より出土した重文「短甲武人埴輪」のスケッチを紹介します。
digidepo_770724-1.jpg(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
右側には「埴輪土偶 武蔵国埼玉郡中條村ヨリ発見 根岸武香氏所蔵」と記され、欄外下には「CLAY HUMAN FIGURE FROM AN ANCIENT SEPULCHRAL MOUND AT NAKAJO IN MUSASI」と記されています。正面だけでなく、裏面のスケッチも写実的に描かれています。
このスケッチは、理科大学人類学教室の画工に始まり考古学者となった大野雲外(1863-1938)が、明治31年嵩山房より出版された『日本考古図譜』に掲載したものです。
大野雲外は、「集古会」の創立会員の一人として参画し、大里冑山の根岸武香氏とも親交があり、東京帝室博物館に寄贈される前にこのスケッチを描いたものと思われます。
*集古会:明治29年、東京帝国大学の坪井教授が設立し、昭和19年まで続いた趣味人同好の会。会の目的は「古器物を持ち寄り、彼我打ち解け、話し合うと言うこと」であった。会員には、根岸武香、柴田常恵の他、人類学者、国学者、茶道家、日本画家、実業家等多彩なメンバーが集まった。

鉄地銀象嵌鞘尻金具(てつじぎんぞうがんさやじりかなぐ)2 [古墳時代]

5月22日の記事で紹介しました、市内箕輪に所在する円山古墳群第2号墳の主体部より出土した、鞘尻金具の保存処理および象嵌の研出しが終了しました。丸山古墳群第2号墳は、直径16m程の円墳で、出土遺物から6世紀後半に造られた古墳と考えられています。
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鞘尻金具とは、大刀の鞘の先端に付く金具です。全長3.8cm×長径6.2cm×短径2.4cmを測り、縁のところに1段、中央に3段の鱗状の銀象嵌が施されています。
↓は、処理前に撮影したX線写真です。肉眼では確認することができませんでしたが、象嵌と目釘孔が確認できます。
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高根横穴墓 [古墳時代]

昨日、凝灰岩の岩盤を掘削した地下壕を紹介しましたが、今回は、同じ小江川地内に所在する、熊谷市指定記念物 史跡「高根横穴墓」を紹介します。
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開口部の幅2.5m、高さ1.5m、奥行4mを測り、形態はカマボコ形を呈し、入口部の形態は地下壕に似ています。
比企丘陵北側には、国指定史跡「吉見百穴横穴墓群」や埼玉県指定史跡「黒岩横穴墓群」などの古墳時代の大規模な横穴墓群がつくられており、大森貝塚を発掘調査したE.S.モース(1838-1925)も調査に訪れています。
この高根横穴墓は、7世紀以降に築造された可能性が高く、県内における横穴墓のなかでも最終末に位置付けられるものと推定されます。
比企丘陵の凝灰岩は、古墳時代には古墳石室石材や横穴墓、平安時代にはカマド構築材、中近世には石造物石材・寺社の石段・井戸枠等に使用された石材で、付近の山中には今でも石切り場の跡が確認されます。
↓は、内部より開口部外を撮影したものです。
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鉄地銀象嵌鞘尻金具(てつじぎんぞうがんさやじりかなぐ) [古墳時代]

市内箕輪地区に所在する円山古墳群第2号墳の石室内より出土した鞘尻金具(大刀の鞘の先端に付く金具)を紹介します。全長3.8cm×長径6.2cm×短径2.4cmを測り、楕円形のキャップのような形状をしています。
この古墳は、出土遺物より6世紀後葉につくられたと判断されています。
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発掘調査が行われたのは1975年で、報告書(3.8MB)が1998年に刊行されていますが、2003年にX線写真を撮影したところ鱗状の象嵌が施されていることが確認されました。そのX線写真が↓です。
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今年度、保存処理と象嵌の研ぎ出しを委託して行いますので、処理作業が終了しましたら改めて紹介します。

また昨日、本ブログの総閲覧者数が320,000人を超えました。今後ともよろしくお願いします。

レプリカ・セム法5 [古墳時代]

レプリカ・セム法の紹介、5回目です。
今回は、古墳時代終末期の管玉の穿孔部をシリコンで型取り、走査型電子顕微鏡で撮影してもらいました。
資料は、立野古墳群第13号墳出土の珪質泥岩製の管玉です。片側が欠損し、両側から穿孔していることが観察できます。珪質泥岩とは、あまり聞きなれない岩石名ですが、チャートと泥岩の中間に位置するシリカに富んだ堆積岩です。
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この管玉の、穿孔部貫通箇所におけるシリコン型の走査型電子顕微鏡写真が↓です。
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肉眼では観察できませんでしたが、微小な同心円状の段が数条観察できます。かなり滑らかな穿孔部の壁面に微小な段が観察されることから、鉄針を用いて穿孔が行なわれたものと判断されます。

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