SSブログ

星溪園の紫陽花 [記念物]


image0 (4).jpeg


熊谷市鎌倉町の名勝「星溪園」において紫陽花が見頃を迎えています。
熊谷は梅雨の合間、気温30度以上の真夏日が続いています。
街なかオアシス、クールスポットの星溪園では幾分か涼しさを感じることができます。
ウィズ・コロナの日々が続きますが、星溪園を散策してみてはいかがでしょうか。


nice!(0)  コメント(0) 

権代美重子著『日本のお弁当文化: 知恵と美意識の小宇宙』 [絵画史]


image1.jpeg

権代美重子 著『日本のお弁当文化: 知恵と美意識の小宇宙』が刊行されました。埼玉新聞の書評でも掲載されています。その中で駅弁当の包装デザイン(駅弁掛紙)の画像などについての提供と監修を行いました。
熊谷の清水藤左衛門(1880-1952)は、明治16年熊谷駅開業に際し、熊谷駅前に客待ちの茶店を出し、駅売り弁当や熊谷五家宝の駅売りを初めて行いました。駅弁販売のコーディネートも行い、その意匠が高く評価されています。

熊谷デジタルミュージアム 駅弁掛紙 特別ページ
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/syuzou/ekiben/index.htm


権代美重子著『日本のお弁当文化: 知恵と美意識の小宇宙』法政大学出版局
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-30052-3.html

書誌概要
和食が世界無形文化遺産に登録され、近年ますます国内外から注目されている「お弁当」。百姓や雑兵の携行食から、観劇のお供の幕の内、各地の名産の詰まった駅弁、松花堂や現代のキャラ弁にいたるまで、庶民のエネルギー源であり美意識の表現でもあったお弁当は、どんな歴史を歩んできたのか。だれもが愛する独特の文化を、器や食の作法の伝統にも注目しながら語り下ろした初の書。オールカラー。


単行本: 252ページ
出版社: 法政大学出版局 (2020/4/16)
言語: 日本語
ISBN-10: 4588300520
ISBN-13: 978-4588300523
発売日: 2020/4/16
梱包サイズ: 18.9 x 13 x 2.3 cm


nice!(0)  コメント(0) 

石仏熟覧4 「王子塚石仏」のはなし 3  ―王子とは誰のこと― [その他]


 王子塚石仏が造られたと考える平安時代末から中世初頭は、武士の台頭する時期でもあり、当地域に勢力を持っていた斎藤氏の関与があったかもしれません。斎藤氏は大我井の森に経塚を造っています。昭和30年代に妻沼小学校(かつての大我井の森一角)の工事に際し発見された経筒に記された「久安」の文字が年号を示すものとすると1145~1151年の間に造られたと考えられます。これは王子塚石仏の建立時期とはあまり離れてはいないと思われます。平沢寺出土経筒(嵐山町)も久安4年(1148)の年号と共に「如法経(法華経)」を収めたとの銘文があります。畠山重忠の曾祖父重綱の世代に納められたとされるこの経筒から武士たちの信仰が窺われます。源頼朝の祈願寺の一つであった慈光寺(ときがわ町)にも日本三大装飾経として国宝指定されている「法華経」が納められたことも頼朝の観音信仰の表れと考えられています。
image006s.jpg image007s.jpg
写真 平沢寺出土経筒 写真 大我井経塚出土経筒

 王子塚石仏は大きな「笠塔婆」だった可能性があり、石仏を祀る聖域表示として塚を築いたと考えるのですが、王子は何に由来するのでしょうか。
 風化により像容が不明だったことから最近まで「十一面観音」ではなく「馬頭観音」との祭祀が続けられていたようです。王子は牛頭天皇の八人の王子たちを指すこともありますが、員数や像容は異なり石仏の主尊が名称の元ではなさそうです。
 王子が神仏ではなく、天皇家や貴族の血筋を引く皇子(親王)や姫(内親王)たちが政争や戦乱などの理由で地方への逃避や移動をするという「貴種流離」の伝説があります。月山を開いた蜂須皇子(崇峻天皇の皇子)や、木地師の祖となったとされる惟喬親王(文徳天皇の皇子)、在原業平の東國下向の伝説、更級日記では「竹芝伝説」が記されるなど広く民間に物語られていたようです。
 下はこんなこともあったかなという空想ですが、鎌倉幕府の滅亡から室町時代には後醍醐天皇の皇子や貴族の子弟たちが軍団を作るため各地へ派遣されます。東北地方の南朝軍を率いた北畠顕家は上州から利根川を渡河し妻沼へ入っています。また、新田義興 ・宗義兄弟が宗良親王と共に上州から鎌倉へ攻め入っています(観応の擾乱)。その道筋は太田―利根川渡河―妻沼―弥藤吾―肥塚―村岡で、古代東山道に沿った現在の407国道と思われます。宗良親王は笛の名手で布陣の合間に笛を吹いて軍旅を慰めたとされます、嵐山町と鳩山町の境を通る鎌倉街道の峠を「笛吹峠」と呼びますが、宗良親王に関わる伝説が由来となっています。宗良親王は斉藤実盛の生涯を知り妻沼の地で笛を吹いたのかもしれません。この出来事を地元人も聞き知っていたことから、妻沼地域にやってきた皇子の記憶が王子塚に残ったのかもしれません。(新井) image033s.jpg
参考写真  深谷城跡に立つ「笛を吹く武者」宗良親王ではありません文武に長けた若武者のイメージです。

 註 「竹芝伝説」  「更級日記」作者は菅原孝標娘(名は伝わっていない)上総国(千葉県)の国府(市原市)に赴任した父に伴い幼少期を上総で過ごし、帰京の際の出来事を後年まとめた日記風の紀行文。少女の感性のまま見聞きしたことがしるされ、当時の東国の様子を知る上でも貴重な記録となっている。「竹芝伝説」の概要は東国からの帰国の道中で地元の民から聞いた話となっている。ちょっとした憧れが感じられる文章と思われる。
 ―東国から皇居の警備に派遣された衛士(皇居の警備などをするため地方から派遣された男子)が故郷を懐かしみ嘆いていたところ、たまたまこれを聞き興味を持った天皇の姫(内親王)が自身を故郷の竹芝に連れていくように命令し衛士と共に武蔵へ下った。天皇は追手を差し向け姫を取り戻そうとしたが、姫は武蔵にとどまる意志を固めていたため、竹芝に住み衛士と夫婦になった。天皇は姫と衛士に武蔵国を任せ生まれた子に武蔵を名乗ることを許したという。姫の没後は住まいに竹芝寺を建てていたが、当時は礎石の跡とこの伝説が残るだけだったという。―
 なお、武蔵竹芝は足立郡司家のことで伝説の場所は埼玉県さいたま市大宮区に所在する氷川神社付近とされています。また、菅原孝標の娘がこれを聞いたのは東京都港区三田付近ともされています。




nice!(0)  コメント(0) 

江南のホタル [お知らせ]



4dd504fc8834eacbec595738c3f3593d.jpg


江南文化財センターが所在する江南地域はゲンジボタルの生息地として知られています。
本年は新型コロナウイルスの感染防止対策のため毎年恒例のホタル祭りも中止となりますが、
ホタルの生息と言う命のドラマは今年も続いています。
生息数等の詳細は次のURLをご参照ください。

江南のホタル発生調査(令和2年)
https://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/kankyo/kankyoseisaku/yaseigairaitomiyo/hotaru.html



nice!(0)  コメント(0) 

石仏熟覧3 「王子塚石仏」のはなし 2  ―石棺仏とは― [その他]

 王子塚は古墳跡と考えられていたため、石仏は横穴式石室の石材だったのではないかと推測されたこともありました。発掘調査により詳細が判明していますが、王子塚石仏が当初古墳石材に使用されたとしたらその大きさから古墳玄室の奥壁か壁・天井などの部材だったと思われます。しかし、後に石材が取り払われたとしても発掘調査では据付の痕跡や同質の石材片や、使用頻度の多い角閃石安山岩や石室床に敷く河原石なども見当たらず、調査の結果からは古墳の痕跡は不明で、時代や内容を知る手がかりとなる出土遺物も得られないため、古墳と考えることは難しい状況です。古墳ではなく石仏を祀るために塚を築いたと考えられるでしょう。
 一時「王子塚石仏」が「石棺仏」と呼ばれたことは単に古墳に使用された石材だろうとの連想からきたもので全く根拠がなく、石棺仏の類例にも当てはまりません。本来「石棺仏」は古墳時代の石棺を転用して造られた石仏をいい、中世以降に造られた例が多いようです。古墳時代の石棺は東日本では群馬県に20数例知られていますが、主に造られたのは近畿地方を中心とする西日本で、石棺仏も近畿地方に多数造られています。
 古代末から中世期には開発が進み古墳を暴くなどした際に出土した石棺が石材として様々に利用されました。鎌倉時代初頭、兵火に焼け落ちた東大寺の再建に尽力した重源は大阪府の狭山池の改修も行っていますが、そこには古墳時代の石棺が樋管や樋門の擁壁として20個以上も使われていました。石棺仏とは異なる転用例ですが古墳の開墾が多かったことが窺えます(参照 大阪府立狭山池博物館)。
image001s.jpg
図 古墳時代に使われた棺―木棺・石棺・陶棺・漆棺
image003s.jpg image002s.jpg
写真 狭山池の中樋に使われた石棺 、配置図
 石棺は前期古墳から終末期の古墳まで蓋と身の二部品を組み合わせ、棺蓋の形状から長持形、家形、割竹、舟形などに分けられ、棺身は刳り貫き式や組合せ式があります。大型古墳に葬られるような有力な首長の棺として利用されたようです。石棺は基本的に長方形で、弧状の屋根や入母屋風の屋根の形を蓋に表し、縄掛状の突起や内刳などの加工痕がみられることから石棺と判断されますが、王子塚石仏にはそのような痕跡はありません。ほぼ方形の石材を方形に彫り窪めることで生じた額状部が深い彫り込みになることから棺身をイメージされたものと思います。
image004s.jpg
image002s.jpg

王子塚石仏
 屋根、身下半、台石を欠失しているから如寳寺笠塔婆に近似した大きさをしている。
写真 如寳寺笠塔婆
 当初の形は龕状の主尊部に別材で屋根が載せられ、主尊の下部には銘文の刻まれた身部が続いたと思われ、総高は2mを超える「笠塔婆」と呼ぶ大型の仏塔であった可能性があります。ほぼ完存の笠塔婆では福島県郡山市に所在する「如寳寺笠塔婆」が知られています(写真)。如寳寺例は縦長の厚板石を使い正面を彫り窪めて蓮座上に定印を組む阿弥陀坐像を肉彫りし、下部には「承元二年(1202)」の年号を刻んでいます。製作時代も王子塚石仏と同時代とおもわれます。なお、阿弥陀如来ではなく観音を主尊とした仏塔は、現世利益を得ようとする造立者の独自の信仰によるものされ、その担い手は実力を蓄えてきた武士たちと考えられています。王子塚石仏の場合斎藤氏が有力です。(文―新井)
参考 宮下忠吉 1980『石棺仏』木耳社
nice!(0)  コメント(0) 

石仏熟覧2 「王子塚石仏」のはなし 1  ―石龕仏― [その他]

 王子塚石仏は弥藤吾地内に所在した王子塚と呼ばれた塚上にありましたが、塚は古墳ではないかと考えられていたことから、昭和40年代に発掘調査が行われ少し離れた路傍に移されました。凝灰岩質の砂岩と思われるやや軟質の石材を用いており、石仏製作用に群馬県方面から運ばれたものと思われます。
image002s.jpg image001s.jpg
写真 王子塚石仏 正面 写真 菅尾磨崖石仏 大分県
 石仏は長年の風雪により風化が進み、失われた左上部片の外、3つの破片を繕い覆い屋に納められています。縦160㎝、横110㎝、厚さ35㎝ほどで、石材の前面を106×84cm程の方形に約12㎝彫下げた仏龕を造出し、坐像を取り巻く額縁状を呈しています。仏龕の縁から仏身が食み出ないことから切り出された平石を加工していることが明瞭です。平安末から鎌倉時代の石龕仏などによく見られる造り方です。
 石仏に限らず時代を経た文化財はその所在する環境や材質により、遺存状態が異なることから単に風化や劣化の度合いを持って製作年代を決めることは適当ではなく、仏像の種類や肢体の彫塑などの表現と類例からから考える方が良いようです。
 王子塚石仏の風化はかなり進み仏身の細部や仏顔は失われ、衣装・装飾の痕跡がわずかに見られます。右手を膝前に伸ばし、左手は胸前に位置する姿勢と仏頭に残るこぶ状の隆起などの痕跡により「十一面観音」と判断されます。同様な例は少ないのですが、「菅尾磨崖石仏(大分県)」中に見ることができ、本来の姿は念珠を持つ右手を膝前に伸ばし、左手は胸前に華瓶を持つ坐像で、蓮華座から坐像の仏身を側面まで立体的に石材から浮き出すように彫られており、ふっくらとした丸みを持つ表現のようです。この作風の特徴は和様とも呼ぶ「藤原様式」と認められ、平安時代末期から中世初頭頃の製作と推定されます。木造仏では櫟野寺(滋賀県)坐像十一面観音があります。また、蓮華座の表現は同時代に造られた野原古墳出土の金銅仏にも共通するもので「吹き寄せ葺き」と呼ばれています。
 王子塚石仏は熊谷市域最古の石仏になる可能性が高く、造立にかかる当地の時代背景や武士・僧侶などの関係者に関心が向かいます。
image004s.jpg image003s.jpg
写真 王子塚石仏頭部右側面 蓮座右側に残る蓮弁の重なり
 頭部の瘤状表現の位置や配置から十一面観音の頭上面と推定される。
image006s.jpg image005s.jpg
写真 野原古墳出土の「宝冠阿弥陀坐像」と蓮台の蓮弁表現

参考 青木忠雄 1976「王子塚石仏について」『埼玉文化史研究』第9号
熊谷市2018『熊谷市史 通史編上巻』―原始・古代・中世―
 註
「藤原様式」は遣唐使廃止以降の日本で和風化が進んだ時期に造られた仏像に見られる、豊満でゆったりとした表現をいい、当時の生活様式や工芸品にも現れている「和風」という雰囲気や作風に含まれます。「大和絵」「和鏡」「仮名文字」などにこの様式が良く現れています。10世紀~12世紀のころ、末法の世の始まりとも信じられていたことから、念仏の唱和から写経・埋経(経塚の設置)や浄土庭園を持つ寺院の建立と浄土信仰による様々の事業が行われています。当時の権力者だった藤原氏から院政の最盛期にも当たっており、造られた寺院と仏像には、現存する浄土式寺院の宇治平等院と仏師定朝に代表される阿弥陀如来像など円満豊穣の仏像が多数造られました。この藤原様式の作風は鎌倉時代以降も好まれ、多くの藤原様(定朝様)仏像が造られたことから製作年代を考えるときには注意が必要になります(文―新井)。
nice!(0)  コメント(0) 

「発掘された日本列島2020」展の開催のお知らせ [お知らせ]

036.jpg


「発掘された日本列島2020」展の開催についてお知らせします。
新型コロナウイルス対策の関連で変更等もありましたが、
本年度も予定どおりの企画での運営を念頭に開催されます。



文化庁「発掘された日本列島2020」展より

1 趣旨

全国で毎年約9,000件を超える発掘調査が実施されておりますが,国民がその成果に実際に触れる機会は,極めて限られています。このため,平成7年度から,近年発掘され特に注目された出土品を中心とした展示を構成し,全国を巡回することにより,国民が埋蔵文化財に親しみ,その保護の重要性に関する理解を深めることを目的として始めました。今回で第26回となります。


2 主催

文化庁,東京都江戸東京博物館,新潟県立歴史博物館,福島県立博物館,一宮市博物館,中津市歴史博物館,全国新聞社事業協議会,東京新聞,新潟日報社,福島民報社,福島民友新聞社, 中日新聞社,大分合同新聞社


3 協力

全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会,全国埋蔵文化財法人連絡協議会,公益財団法人元興寺文化財研究所,共同通信社


4 後援

全国史跡整備市町村協議会


5 会場及び会期


東京都江戸東京博物館
令和2年6月13日(土)~令和2年8月3日(月)

新潟県立歴史博物館
令和2年8月22日(金)~令和2年9月27日(日)

福島県立博物館
令和2年10月10日(土)~令和2年11月15日(日)

一宮市博物館
令和2年11月28日(土)~令和2年12月27日(日)

中津市歴史博物館
令和3年1月16日(土)~令和3年2月21日(日)

※東京都江戸東京博物館の会期は、事前の案内から変更になっていますので、ご注意ください。なお、新型コロナウィルス感染症拡大の状況によっては、各館での開催日程の変更等が生じる場合がありますので、ご注意ください。


6 展示内容
(1)新発見考古速報展
(2)特集1日本の自然が育んだ多様な地域文化
(2)特集2記念物100年―我がまちが誇る史跡・名勝・天然記念物―


7 展示図録

『発掘された日本列島2020新発見考古速報』文化庁編共同通信社発行



「発掘された日本列島2020」展フライヤー
https://www.bunka.go.jp/gyoji/pdf/92267701_01.pdf


nice!(0)  コメント(0) 

石仏熟覧1  交通安全の元祖か「人馬安全」 [その他]

 熊谷の水車に関して、少し紹介したところですが、平戸の超願寺境内に江戸時代の末に立てられた馬頭観音塔があります。平戸村近辺の水車営業者と運輸業者が交通の安全を祈願して建てたもので、元は星川沿いの路傍から移されたようです。
 碑面には次のような銘文が刻まれています。
 ・塔身 (正面) 「馬頭観世音」 (左面) 「安政二年(1855)龍集乙卯冬十月吉日之建」
 ・台石 (正面) 「人馬安全」 (右面) 「近郷扶佐馬持講中」
     (左面) 「扶助 熊谷駅 隣村水車 同馬喰中」 
     (背面) 「当所講中世話人」
image001s.jpg image003s.jpg
image002s.jpg

 馬は農耕・交通・運輸の手段としてまた担い手として重要な存在でしたから、この仏塔は刻まれた文字に見るように「馬頭観音菩薩」に直截に「人と馬との安全」を祈願しています。熊谷駅は中山道の伝馬の役割を云うもので宿と駅が一体となって人馬の宿泊と荷駄の輸送を管理する制度でした。宿場の伝馬が不足した場合に近郷の村々へ応援を要請することを助郷といい、村々にとっては多大の負担を強いられる制度でした。
 「熊谷駅馬喰中」は伝馬に従事した人馬のこと、「近郷扶佐講中」は助郷の人馬のことでしょう。輸送中の事故や病気などから馬の無事を願うことは、普段から馬と共に生活する馬方や農家の人たちで、地元の世話人もその思いを理解していたと思われます。面白いのは「隣村水車」が馬喰中と同等に記されていることです。この隣村水車は平戸村か戸出村かのいずれかに該当すると思われます。なぜ水車経営者が一緒になって馬頭観音を祀ったかは、精米・精麦・製粉のため水車へ穀類を運ぶことが馬車であれ荷駄(馬の背に載せる場合)であれ日常的にあったからと思われます。かつて星川あるいは成田堰用水路に水車があったことを示す貴重な記録です。(新井)
nice!(0)  コメント(0) 

源宗寺の大仏奉加帳 [仏像]

 平戸の大ぼとけで知られる源宗寺。高さ約4メートルの薬師如来と観世音菩薩が安置されています。代々、寺院を管理する藤井家には、源宗寺に関する史料が遺されています。
 そのなかのひとつに正徳3年(1713)の「大仏奉加帳」があります。奉加帳とは、寺社などの造営・修理のために、寄進(寄付)を行った人の氏名や金額を書き連ねた帳面のことです。
 序文の文章が、とても感動的だったので紹介したいと思います。

【原文】
3673A5C9-2DC0-4763-9986-B66BE1B46DCA.jpeg
立正大学古文書研究会 2001『武蔵国埼玉郡平戸村 藤井健一家所蔵文書史料集ー慶長期から享保期ー』p.93、94 より

【訳文】(意訳の部分あり)

 (木版刷)
 ご本尊二体、再興奉ります

 薬師如来 高さ約3.7メートル
 観世音菩薩 高さ約4.03メートル

  絶えてしまうものを継承し、壊れたものを修復することは、長い年月伝え保つための方法であ
 る。縁ある者を励まし、縁なき者を誘っていくのは仏の道に携わるものの務めである。今、源宗
 寺の開山、源宗大法師が建立されたご本尊は、建立後これまで修復されることが無かったため、
 長い年月を経てひどく傷んでしまった。
  かねがねご本尊を再興したいとの願いは胸にあふれていたのだが、誰がその願いを叶えてくれ
 る縁を取り持ってくださるであろうか?源宗寺は貧乏寺で万が一の際の貯えもおぼつかない。そ
 こでこれまで機会の到来をずっと待ち続けてきた。
  ひそかにじっくりと考え直してみると、運命はどのように変転していくかわからない。これま
 での有縁、無縁にこだわることなく、速やかに多くの方々の助力を仰いで、本尊再興の願いを実
 現するべきであると決心した。ゆえに皆様からのご寄付を募るものである。願わくば皆様方にご
 寄付の功徳と、ご本尊薬師如来様、観世音菩薩様のご利益がもたらされますように。

   昔

 正徳3年8月8日(1713年9月27日)
 忍藩領平戸村藤井山源宗寺 印

 (現代語訳:小久保 則和)


 この後に、寄付者の氏名と寄付金額が書き連ねられています。
 当時の人々が、少しずつお金を出し合って薬師如来様と観世音菩薩様を御護りしてきたことがわかる貴重な史料です。
 
1703D326-70A7-4C87-B18E-F577B4B5B0BD.jpeg


参考文献
立正大学古文書研究会 2001『武蔵国埼玉郡平戸村 藤井健一家所蔵文書史料集ー慶長期から享保期ー』
nice!(0)  コメント(0) 

文化庁「文化芸術活動への緊急総合支援パッケージ(令和2年度2次補正予算案 )」の概要 [お知らせ]


kin1511-3_07.jpg
熊谷市・地域伝統芸能今昔物語での市指定無形民俗文化財「池上獅子舞」



 文化庁のホームページに、「文化芸術活動への緊急総合支援パッケージ(令和2年度2次補正予算案 )」の概要が掲載されました。概要を以下に示します。ご参照ください。



令和2年度補正予算案等における文化芸術関係者への支援(令和2年度2次補正予算案閣議決定後)(2020.05.29更新)

・ 概要
「文化芸術活動への緊急総合支援パッケージ」は「新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、舞台芸術等の活動自粛を余儀なくされた文化芸術関係団体においては、今後、一層の感染対策を行いつつ、活動の再開に向けた準備を進める必要がある。そのため、文化芸術関係者・団体に対して、直面する課題を克服し、活動の継続に向けた積極的取組等に必要な経費を支援し、文化芸術の振興を図る。」ための事業とされています。
具体的には、① 文化芸術・スポーツ活動の継続支援(予算案額509億円) 、②文化芸術収益力強化事業(予算案額50億円)、③文化施設の感染症防止対策事業 文化施設の感染症防止対策事業(予算案額 2,084百万円) 、④生徒やアマチュアを含む地域の文化芸術関係団体・芸術家によるアートキャラバン(予算案額 1,317百万円 、⑤子供のための文化芸術体験の創出事業 (予算案額1,302百万円)、⑥最先端技術を活用した文化施設の収益力強化事業( 予算案額14,420百万円)が挙げられています。


詳細は以下のリンクをご覧ください。
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/sonota_oshirase/pdf/202005291800_01.pdf

 

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。