SSブログ

旅の記憶‐18 ―腰塚小四郎 飯能焼のデザイナー 1― [紀行]

image003_ms.jpg image001s.jpg
写真  現在の「玉井寺(ぎょくせいじ)」(熊谷市玉井)

 江戸時代末から明治時代にかけて埼玉県の南西部に「飯能焼」という陶器が生産されていました。平成になり飯能市に窯場が確認され、幻ともいわれた「飯能焼」は、皿・徳利・鍋・急須など様々な日常雑器を造り続けていたことが分かりました。飴色やオリーブ色の器肌に白土で模様を描いたものが代表的な製品で、この白線模様は筒書又はイッチンと言い草花文や幾何学文・装飾文字など実にのびやかに迷いなく描かれています。
 この絵付を担当した「絵付師」は熊谷市玉井出身の腰塚小四郎という人物で、寛政6年(1794)に玉井村(当時)に生まれ明治9年(1876)に亡くなっています。嘉永6年(1851)に、56歳で真能寺村(当時の飯能市の一部)に移籍した記録(当時の戸籍に当たる『人別帖』管理した寺から移動先の寺院へ送付した「送り状」のこと)があります。おそらく家族とともに生活の拠点を熊谷から移したものでしょう。この時小四郎の妻は34歳息子は2歳でしたが、さらに長女と次男を儲け、次男の倉太郎が後継となり2代に渡り飯能焼の絵付師となっています。小四郎は亡くなるまでの25年の間、「飯能焼」の基礎を築きその発展を支えました。彼の描いた絵には「玉井庵志水」の雅号がみえ、自分の出所玉井を忘れることはなかったと思われます。

 参考文献
飯能市立博物館2001〈特別展〉黎明のとき―飯能焼・原窯からの発信―
浅見徳男1980「「飯能焼」陶工の系譜」埼玉地方史第9号
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。