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講座「碧梧桐と熊谷の文化史―現代俳句の系譜と民芸店「工藝」の文化振興―」 [展示]

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 2019年9月23日、熊谷市名勝「 星溪園」の積翠閣において、俳壇史を学び楽しむ in 星溪園 熊谷青年会議所クールシェア版街なかゼミナール 「碧梧桐と熊谷の文化史―現代俳句の系譜と民芸店「工藝」の文化振興―」を開催しました。会場では河東碧梧桐が揮毫した短冊を含む屏風を特別公開しました。屏風を前に、河東碧梧桐の俳句論などをはじめ金子兜太俳句との関わりなどについてギャラリートーク風に講演しました。また屏風をかつて所有していた熊谷市本町の民芸品店「工藝」に着目し、1980年代から2000年代まで続けられた文化発信について、その熊谷の文化史とともに紹介しました。約20名が受講され、碧梧桐らの貴重な書画を集めた屏風に大きな関心を集めていました。





河東碧梧桐が揮毫した短冊の概要


将軍も見ゆ鳥葬や冷かに


大空を 仰ぐ目の
百姓の菊に散りつつ
大典奉祝 碧


啓 よくよく病気に
親しい君です 
お互いに御無沙汰してをるから無事だと
思ふてをるとかういふ事がある
十分ご静養ありたし
六月十六日 碧

(改行、筆者)


人物解説

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう) (1873-1937)

明治6年(1873)2月26日、愛媛県松山市千舟町(旧温泉郡千舟町)に朱子学派の学者で、藩学明教館の教授である父・河東坤(したがう)(号・静溪)の五男として生まれる。本名は秉五郎。日本の俳人・随筆家。 伊予尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、第三高等学校入学の後、第二高等学校(現・東北大学)中退。中学時代から正岡子規に兄事、高浜虚子とともに子規門の双璧をなした。
 子規没後、新聞「日本」の俳句欄の選者を子規より継承した。明治39年に全国俳句行脚を開始、新傾向俳句運動をすすめる。中塚一碧楼らと大正4年『海紅』を創刊、自由律俳句を示す。『八年間』『三千里』『碧梧桐句集』などがある。大正12年「碧」、14年「三昧」を創刊。昭和8年(1933)還暦祝いの席上で俳壇からの隠退を宣言した後、昭和12年(1937)2月1日に東京にて没した。

小川千甕(おがわせんよう) (1882-1971)
明治15年10月3日生まれ。本名は多三郎。仏画師の北村敬重の弟子となり、その後、浅井忠に洋画を学ぶ。明治時代末、28歳で東京へ転居し、『ホトトギス』などに挿絵、漫画を発表して人気を博した。更に大正2年には渡欧し、印象派の巨匠ルノワールと面会した。帰国後は日本美術院に出品し、本格的な日本画家として活躍。大正4年、川端竜子、小川芋銭らと「珊瑚会」を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年、日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。代表作に「炬火乱舞」などがある。


中塚一碧楼(なかつかいっぺきろう) (1887―1946)
岡山県玉島(現倉敷市)に生まれる。本名、直三。岡山中学在学中にキリスト教の洗礼を受けている。明治40年(1907)、上京し早稲田大学商科入学、飯田蛇笏らの早稲田吟社に入り『国民新聞』俳句欄に投句し、当時の自然主義文学思潮の影響を受けた。明治41年より河東碧梧桐選「日本俳句」(雑誌『日本及日本人』俳句欄)に投句、新傾向作家として頭角を現し、明治42年には新傾向の中心作家となった。翌年、選者否定の俳誌『自選俳句』を、早大文科に再入学した際には『試作』を、大正1年には『第一作』(『試作』改題)を創刊して個性的な口語自由律の作を発表した。大正4年、碧梧桐とともに『海紅』を創刊し、碧梧桐が去ってからは同誌を主宰して『層雲』と並んで自由律俳句の流れを形成した。作風は初め頽唐風(たいとうふう)の傾向があり、その後は清新平明な叙情風に移った。句集に『はかぐら』(1913)、『一碧楼句抄』(1949)などがある。

冨田溪仙(とみたけいせん)(1879-1936)
明治12年12月9日、福岡県博多に生まれる。本名は鎮五郎(しげごろう)。字は隆鎮。別号に雪仙、溪山人など。明治から昭和初期に活躍した日本画家。初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。冨田家はかつて福岡藩の御用を務め、溪仙が生まれた頃は麹屋町(現在の博多区川端)で素麺製造業を営んでいた。福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事。後に仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。各地を旅し幅広い研鑽を積む。横山大観の薫陶を受け、大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員となる。京都で死去。俳人河東碧梧桐や、駐日フランス大使であった詩人のポール・クローデルとの交遊が知られている。

中塚響也(なかつかきょうや)(1888-1945)
岡山県玉島町で生まれる。本名、謹太郎。俳人中塚一碧楼の妹の清と結婚。河東碧梧桐に師事、「乱礁会」「水曜会」を結成。義兄一碧楼の「自選俳句」に参加。一時「海紅」に参加したが大正期には俳壇を離れた。昭和10年、定型俳誌「渚」を発刊したが、昭和15年に廃刊した。

巌谷小波(いわやさざなみ)(1870-1933)
明治3(1870)年、東京出身。本名は季雄。一時、「漣山人」と号した。父は貴族院議員も務める裕福な家庭に育ち、医者となることを期待されて育ったが、文学を好み、尾崎紅葉の主宰する硯友社に入った。「こがね丸」(1891)がきっかけとなり、博文館から次々にお伽噺を発表し、明治27(1894)年からは雑誌「少年世界」の主筆となり、児童向け雑誌や、「日本昔話」「日本お伽噺」「世界お伽噺」などの叢書を発刊した。明治33(1900)年から2年間、ベルリン大学東洋語学校に日本語教師として赴任し、帰国後、ドイツでの見聞をもとに、「学校芝居」を提唱し、そのための脚本も書いた。「お伽翁」とも呼ばれ、近代児童文学の祖となった。

尾崎放哉(おざきほうさい)(1885-1926)
鳥取県吉方町(現鳥取市)に生まれる。本名秀雄。中学時代より句作。1902年(明治35)第一高等学校入学。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子(きょし)選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。07年ごろ放哉の号となり、09年大学卒業。東洋生命保険会社入社。15年(大正4)末より井泉水の『層雲』に投句。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。25年夏、小豆島(しょうどしま)の西光寺奥の院の南郷庵(なんごうあん)に入り独居無言、句作三昧(ざんまい)の境に入ったが1年足らずで病没した。句集『大空』(1926)があり、口語自由律の句に特色を発揮した。

荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(1884-1976)
明治17年6月16日、東京・芝神明町(現港区浜松町)に生まれる。本名藤吉(とうきち)。中学時代より作句し、1901年(明治34)旧制第一高等学校に入学し、角田竹冷の「秋声会」、岡野知十の「半面派」に関係し、のち正岡子規の日本派に参加し一高俳句会を結成した。05年東京帝国大学言語学科入学、河東碧梧桐の「新傾向俳句運動」に加わり、従来の俳号「愛桜」を「井泉水」と改めた。08年東大卒業。碧梧桐と11年4月『層雲』を創刊したが、季題について意見を異にする碧梧桐が大正初頭同誌を去り、井泉水は季題と定型を揚棄した自由律俳句を唱え、門下から野村朱鱗洞、芹田鳳車、尾崎放哉、種田山頭火らの作家・俳人を輩出した。句集に『原泉』(1960)、『長流』(1964)、『大江』(1971)、主著に『俳句提唱』(1917)、『新俳句研究』(1926)、『旅人芭蕉』正続(1923~25)、『奥の細道評論』(1928)などがある。65年(昭和40)芸術院会員。昭和51年5月20日に没した。

種田山頭火(たねださんとうか) (1882-1940)
山口県防府町(現防府市)に生まれる。本名、正一。幼時の母の自殺が山頭火の生涯に大きな衝撃を与えた。1902年(明治35)、早稲田大学文科に入学したが、神経衰弱で退学して帰郷。父と酒造業を営むが失敗し、家は破産。山頭火は熊本市で額縁店を開くが、家業に身が入らず妻子と別れ上京。しかし、定職を得ず、熊本に帰る。酒におぼれ生活が乱れた。1924年(大正13)市内の報恩寺で出家。法名、耕畝とした。市北部の植木町味取の「味取観音」の堂守となった。1926年、行乞(ぎょうこつ)の旅を始め、山口県小郡(現山口市)の「其中庵」に住したが、行乞漂泊すること多く、諸国を巡り、1940年(昭和15)松山市の「一草庵」で没した。句は1913年から『層雲』に投句。漂泊中の作に特色がある。句集『草木塔』(1940)がある。





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