SSブログ

「イノシシ埴輪」  女塚古墳出土 [古墳時代]

 今年の干支はイノシシ、節分から立春を過ぎ、旧暦からすると本来の新しい年の始まりとなります。今年の干支「イノシシ」は「けもの」偏に「者」で表され、「けもの」偏はぶたを「者」は貯(チョ)に通じることから肉(シシ)をたくわえた豚の意とされ、日本では「猪」を意味するようになったとされます。
 イノシシは原始時代から多産の象徴と考えられ「山神の使い」とされ、縄文人たちはその姿を土偶に象っています。弥生人たちは「シカ」の姿も土器に描いています。そして、古墳時代人は両者の姿を埴輪に象っていますが、古墳時代のイノシシは狩られるものの姿で表現されることが多く矢を受けた姿のイノシシ像がみられます(群馬県)。神の交代、あるいは没落といった意識の変化がみられるとされ、このことは、アニメ映画「もののけ姫」に描かれた第二のテーマにも反映されているようです。
image001s.jpg
女塚古墳出土 イノシシ埴輪

 上掲の「イノシシ埴輪」は熊谷市中条地内の女塚古墳から発見されたものです。平板の鼻が特徴的に作られており、牙も備わった成獣です。頭部だけが確認されているので全形はわかりませんが、シカの埴輪も出土しており、狩りの場面を再現したようです。
群馬県高崎市の保渡田古墳群(古墳公園とかみつけの里資料館があります)の二子山古墳(前方後円墳)の近くから発見された埴輪群の中に、上唇を上方向に折り曲げた粘土板で表現した女塚古墳と類似するイノシシ埴輪があります(保渡田Ⅶ遺跡)。この埴輪は矢を受けた表現があり、狩人とされる人物埴輪の腰には、獲えた動物が付けられています。
 女塚古墳のイノシシ埴輪、シカ埴輪とも江南文化財センターで展示しています。会いに来てくれたらうれしイノシシカもとイノシシとシカが言っています。
image003s.jpg
イノシシ埴輪の口元アップ-女塚古墳
nice!(0)  コメント(0) 

彩の国いきがい大学熊谷学園特別講義【日本三大聖天 妻沼聖天山 妻沼聖天山の歴史と建造物の概要】について [建造物]




2018年11月30日、彩の国いきがい大学熊谷学園で開催された特別講義「日本三大聖天 妻沼聖天山 妻沼聖天山の歴史と建造物の概要」の様子を、Youtubeの江南文化財センターサイトに掲載しました。妻沼聖天山の建造物郡の概要と文化財保存の状況をテーマにお話しました。長時間の講義ですが、どうぞご覧ください。







nice!(0)  コメント(0) 

寺内廃寺の塑像 -9 邪鬼 [奈良平安時代]

 仏法に敵対する勢力とも、また信仰を妨げる迷いのこころを具現したともされる邪鬼は、異形の姿で表現され、圧倒的な迫力と強固な意志を表現した神将たちに押さえつけられています。仏像に表現された邪鬼は斑鳩の法隆寺金堂の四天王像の台座にみえるのが初期の例とされています。法隆寺の邪鬼は5本の指を持っていますが、寺内廃寺の時代に近い東大寺戒壇院の四天王像では手は3本指で、足は2本指に表現されています。この仏像は粘土を材料とした塑像で、寺内廃寺と同じ技法で造られたものです。増長天は起き上がろうとする邪鬼の腹と頭を踏みつけている。凶悪の相を見せる邪鬼は3本の指、2本指の足を力ませ天王をはね返そうと力んでいます。寺内廃寺の塑像は3本爪が短く付け根は甲高くつくられているため、足としているのですが、邪鬼ではなく獅子など動物の可能性も考えられそうです。
image002s.jpg image001s.jpg
増長天像の邪鬼 広目天像と多聞天像と足下の邪鬼

image005s.jpg image006s.jpg
寺内廃寺塑像 獣脚か 聖天山 貴惣門 持国天像邪鬼の足裏 指2本

nice!(0)  コメント(0) 

埼玉県教育委員会・小松弥生教育長による国宝「歓喜院聖天堂」の視察 [建造物]


image.jpg

image.jpg


3月2日、埼玉県教育委員会の小松弥生教育長が妻沼聖天山本殿の国宝「歓喜院聖天堂」を視察しました。聖天堂では平成の大修理を補完するための美装化事業が進められており、工事主体者の歓喜院と国・県・市の補助事業として本年3月までの工期を予定しています。小松教育長は文化庁の文化部長などを歴任し、文化財行政にも精通しており、文化財建造物の保存と公開活用に向けての情報共有をすることができました。




nice!(0)  コメント(0) 

中条堤―3  堤の現況と歴史的な評価 [その他]

 中条堤の歴史や機能への研究は多くの研究者により進められていますが、その一人に皇太子殿下-徳仁親王がおられます。平成21年3月トルコで開かれた「第5回世界水フォーラム」において、唐古鍵遺跡や「中条堤」を取り上げて、『水とかかわる-人と水との闘い』と題した基調講演をなされています。 講演に先立ち同年2月には中条堤に立たれ、熊谷市域から行田市域に伸びる堤の現況と集落の配置などを目の当たりにされたようです。
 なお、講演の内容などは「宮内庁」ホームページから見ることができます。
image005s.jpg
中条堤(日向地点の)説明版

image007s.jpg
現在の福川水門―葛和田
nice!(1)  コメント(0) 

寺内廃寺の塑像 -番外編 熊谷の邪鬼 [奈良平安時代]

 間もなく2月3日の節分を迎えますが、市内の各家庭でも社寺でも節分会が行われることでしょう。前回寺内廃寺の塑像から邪鬼の姿を想像したのですが、遺存部が少なく全体像を想定することはまだ難しいようです。ただ、参考として市内の寺院で邪鬼を見ることができるので紹介しておきます。
 妻沼聖天山の貴総門の左右には巨大な多聞天像と持国天像が並び立ち、その足元にはそれぞれ1体の邪鬼が踏み敷かれています。おどけたような身振りと表情をしていますがなぜか哀愁も漂うその造形に強い印象が残ります。両像は平成29年3月に修復されています。
image011s.jpg image009s.jpg
貴総門 左右に天王像が配される。
北(右)側の持国天像高さ約3.1m →

image013s.jpg image014s.jpg
多聞天像邪鬼―南(左)側 持国天像邪鬼―北(右)側

 邪鬼について、詩人の水尾比呂志は邪鬼について次のように表現しています。
「信仰篤かった時代に生きた人たちは、仏を礼拝して低く垂れた頭の眼前に、この醜悪な肉塊を見出しては、仏国土にふさわしからぬ異端者とまゆをひそめたかもしれぬ。あるいは因果応報を眼前に見る心地で、あるいは邪悪の戒めの端的な例証として、また仏法を守る強力な護法神の力の証明としてこの憐れむべき態たらくを肯うたことだろう。誰にも愛されず、だれにも認められず、威丈高な四天王の重圧の下に、踏みつけられ押し潰され、蹴飛ばされこき使われ、嘲られ罵られ辱められ、歯牙にもかけられず見捨てられ、指さし笑いの的にされる。邪鬼はまこと悲しい宿命の生き物であった。 だが、今日私たちは、この疎外された無用者に、なぜか心を惹かれる。日陰者に光を当てようとする。浄土の異端者に親しさを覚えるのである。」―水尾比呂志 1967『邪鬼の性』 淡交社―
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。