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奥原晴湖一門書画研究会の動画 [普及事業]


 旧暦8月15日は奥原晴湖の誕生日です。本年4月21日に熊谷市上之の龍淵寺で開催された奥原晴湖一門書画研究会の講演会「奥原晴湖の生涯と芸術―晴湖芸術の変遷と「南画」の影響関係をめぐって―」とギャラリートークの様子をYouTubeの江南文化財センターのサイトにアップしました。また、展示作品の全てを動画で撮影し、バッハ作曲の「2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043」第2楽章とともに鑑賞できる内容も加えています。晴湖芸術の概要と、百花繚乱のごとく輝き続ける晴湖一門の絵画作品をお楽しみください。


奥原晴湖(おくはらせいこ)
 天保8年8月15日(1837年 9月14日)- 大正2年(1913年)7月28日)
 晴湖は、古河藩士の池田政明の四女として生まれました。10歳のころには古河藩家老の鷹見泉石と交流が生まれ、17歳の時に谷文晁の流れを汲む枚田水石に絵画を学ぶようになります。29歳の時に関宿藩奥原家の養女となり上京、上野池之端の岡村家を頼り、摩利支天横丁に新居を構え「墨吐烟雲楼」と看板を掲げ、晴湖と号しました。このころの画風は、豪放磊落で力強いながら、理にかなった用筆や功名な構図が見られ、世に“東海書き”と称されました。「墨吐烟雲楼」では、書画と共に漢学を教えました。漢詩は当時第一流の大沼枕山や薄井小蓮に添削を受け、作品には必ず自作の詩や詩句を書き、独特の詩境を見せるようになりました。
 明治元年、32歳の頃には木戸孝允や山内容堂、大沼沈山らの画会に出席し、政界の名士と交流し、明治5年には皇后陛下の御前で揮毫するなど、華々しく活躍しました。その活躍から明治12年の「皇国名誉書画人名録」に閨秀画家として晴湖が筆頭にのぼりました。
 その後「墨吐烟雲楼」が鉄道用地として買い上げられると、古河藩領があった上川上村(現・熊谷市)に居を構え、画室を「繍水草堂」「繍佛草堂」「寸馬豆人楼」などと称して作品を発表しました。その画風は密画が多く、非常に鮮やかで色彩豊か、細密な筆致で描かれるようになりました。その後の大正2年に77歳で亡くなり、上之の龍淵寺に葬られました。昭和36年には「奥原晴湖墓」として埼玉県指定記念物 旧跡に指定されています。また、平成18年には晴湖の画室に通じる玉石の敷かれた道が見つかり「晴湖の道」として再現されました。




講演会「晴湖の生涯と芸術」【奥原晴湖一門書画研究会「龍淵寺」】


ギャラリートーク・鑑賞会【奥原晴湖一門書画研究会「龍淵寺」】


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