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残暑お見舞い お茶席の風景から [紀行]

残暑お見舞い申し上げます。

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 立秋を迎えましたが、実際の気温と暦にはズレがありますね。早朝や日暮れに吹く風の中に、感覚を研ぎ澄ましていると、微かに秋の気配を感じ始める頃、というのが立秋本来の意味です。夏の茶室には、解読に頭をひねるような根気の要るものではなく、さらりとしたものを掛けたくなります。

 今日は、白紙讃(賛)の「涼しさは たぐひも更に夏山の 峰より落る音なしの瀧」。
「白紙の讃」は、茶掛の一種で、書画のないものに讃のみを書いたものです。茶室の床の間に掛けられている掛け軸は、道具の中で最も重要視されていて、その日の茶会の主題を提示しています。禅宗の高僧の揮毫による墨跡や、色紙、短冊、消息、唐画や古画、歴代の家元の字句や画讃などがあります。白紙讃には、余白に何を感じ、思い描くかという楽しみがあり、そこは自分だけの自由な空想の空間となります。
家元(表千家)では毎月の一日は千家十職がたの定例の集まりの日ですが、八月は八朔の名で月の初日となります。

 江戸開府に先立って、天正十八年(一五九〇)の八月一日に、徳川家康が江戸城に入りました。将軍家の歴史を回顧する日として、江戸幕府には祝いの大切な日となります。家康の十男、南龍院徳川頼宣が和歌山に入り、表千家四代江岑宗左が寛永十九年(一六四二)に出仕を始めます。三代宗旦は千利休の孫に当たります。青年期に利休自刃と一家離散を目の当たりにしており、千家再興の後も、自身は大名家に仕官はしませんでしたが、時代が移り、徳川幕府の支配体制の下では余儀もなく、三人の息子を其々大名家に仕官させました。紀州歴代の藩主は茶の湯に造詣が深く、家元行事は南紀徳川家の例に倣うことが多くなります。

 身近なところですと、八月の大きな行事に「お盆」があります。古くからあった先祖供養の風習と、中国仏教の「盂蘭盆会」が時を経て交わり、日本独自の行事へと変化したものです。盂蘭盆会とは、「ウラバンナ(逆さ吊り)」というサンスクリット語を漢字で音写したものです。それが転じて「逆さまに吊り下げられるような苦しみに遭っている人を救う法要」という意味になったとされています。当初は朝廷儀式であったため、上層階級の人たちだけが行うものでしたが、江戸時代になって、仏壇や盆提灯に使われる蠟燭などが普及したことから、庶民でも先祖供養に使用する道具をそろえることができるようになりました。こうして今でも、先祖を供養する儀式が受け継がれています。
お盆のころから急に見かけるようになる蜻蛉は、先祖の霊をしょって来るということで、「精霊蜻蛉」と呼ばれます。特定の蜻蛉をさす名前ではないようですが、黄色っぽい体に薄い羽、懐かしそうに、同じところを飛び交っています。

 立秋から数えて十五日目ころには処暑を迎えます。暑さが和らぐという意味があり、秋が近づき、穀物が実り始める時期でもあります。

しのぎよい季節が、そこまで来ています。どうぞお健やかにお過ごしくださいませ。


熊谷市文化財保護審議会委員 
表千家講師  笠原みおり


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