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熊谷は水車のまちだった [紀行]


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写真 昭和10年頃(上押切)

 荒川は熊谷の土地と自然を産み、市の歴史と文化にも大きな影響を与え続けています。荒川と深くかかわりながら、現在では全く消滅した「水車」取り上げてみました。かつて熊谷の産業を支え、自然エネルギーを上手に利用し風土景観に潤いを与えた熊谷の水車に興味をもってくれたらと考えています。
 埼玉県の水車については1980年代に埼玉県史編編さん室が総合調査を行った「荒川」の報告が基礎的な研究報告と思いますが、その後の研究はほとんど進んでいない状況です。荒川の水車は熊谷の水車なしでは語れないと思い、簡単な紹介を以前行っています『熊谷市公連だより 第8号 第11号 第14号』(※こちらも、ぜひお目通しください)。
 熊谷の水車の特徴は次の点にあります。
 1 荒川の水量・水勢を分水した六堰用水路を利用し、市域の集落まわりに水車施設が展開していた。なお、荒川中流域に位置する熊谷市域より下流地域では殆ど水車は設置されなかった。また、熊谷より上流では荒川本流には「船車」と呼ぶ水車船を設置していた。
 (河合玉堂の長瀞の春を描いた屏風絵「行く春」にも描かれています。また、玉堂は好んで水車を画中に入れています。)
 2 熊谷市域に所在した水車は旧熊谷と江南町で、江戸時代後半期から昭和30年代まで稼働営業していた。市域の産業と結びついた米麦の精製から製粉等が主体で、近隣からの利用も多かった。昭和初年頃の統計等を見ると市域に56基の水車があった。
 3 水車本体の研究は進んでいないが、下掛け式、水輪を片側に備えた切妻建物の写真か残されており、かつての姿をわずかに知ることができる。(また、知られていない写真や図が見つかり公表されることを期待したい。)
 4 水車の消滅は、荒川上流のダムや用水路の新設・改修などで水量・水勢が減少し水車の稼働が難しくなったこと、加えて燃料を動力とする機械化が進んだことによる。
 5 市域には水車施設の痕跡がまだ残る場所があります。現地での観察また、記憶の発掘も
進めていけたらいいと思います。(かつての市内星川にも水車がありました。夢は復元できたらいいな。)
 熊谷の水車は市の記憶からも忘れ去られてしまいそうです。水車に関心を寄せる人が増えることを願います。

 参考図書 埼玉県1988『荒川 ―Ⅰ 荒川総合調査報告書』


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