SSブログ

新島の一里塚の記憶 伐採そして保存へ [記念物]

B3EB88D8-423A-4617-AA1D-9ED95C3DD51B.jpeg
2020年1月現在の新島の一里塚

2CD98CE1-CAF6-48EA-B8EA-673137118197.jpeg
伐採したケヤキの切り株の状況

F34181A3-60BE-4F15-B44C-7B2FE6B0F4C4.jpeg
新たに追加した説明板

 熊谷市新島地内に所在する「一里塚」には、中山道の位置を示すために約4キロごとに建立された塚があり、樹木が植えられていました。これは「新島の一里塚」とも呼ばれ、慶長9年(1604)に江戸幕府が日本橋を基点とした主要街道の整備のために行われた事業の一つであり、日本橋から16里目に当たります。他に熊谷市内には久下地内及び曙町地内に一里塚があり、土盛りされた塚の形状が残されているのは新島の一里塚のみです。昭和29年(1954)に熊谷市の文化財史跡に指定されました。通常、一里塚には「榎(エノキ)」が植えられていますが、新島の一里塚には「ケヤキ」が植生していました。

 しかしながら、平成22年(2010)9月及び平成30年(2018)9月の豪雨により、市指定文化財・史跡である一里塚のケヤキの枝が折れ、樹木の大半が失われてしまいました。その後、樹木の補修を行いましたが、樹勢は復元できず、倒木の危険性があったことから、地域住民の要望もあり、令和元年9月に伐採しました。文化財指定は維持したままで、将来的な保存を行うことになりました。それに合わせて、旧来の文化財説明板に、かつての生命力あふれる樹木の画像を添付した説明板を追加設営し、一里塚の歴史を後世に伝えるよう新たな啓発を進めています。

現在、中山道を散策する人々が増えており、中山道の宿場町として栄えた熊谷宿をはじめ地域の歴史遺産や史跡に対する関心が高まっています。今後、新たな植樹については未定ですが、残された塚の部分を保存するとともに、中山道及び一里塚の歴史を広く発信していく予定です。新たに追加した説明板のPRをはじめ、熊谷デジタルミュージアムに「一里塚の記憶」として、一里塚の概要などを収録、掲載公開できたらと考えています。




nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。