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旅の記憶‐14 那須野の開拓へ 2 -開墾事業- [紀行]

 開墾地は約1200町歩(約3×4㎞)に及ぶ山林原野を対象に、中村孫兵衛を責任者とした「那須東原開墾社」で事業を進めました。実際に現地の開墾作業や事務に当たったのは中村の意を受けた実弟の中村房五郎と現地責任者として入植した大平定治(武体村の出身)です。
 現在、那須野の乳業牧場は有名です。開墾初期から乳牛牧場開発は目標にあったらしく、獣医であり自らも牧場経営を行っていた中村房五郎に協力を求めたと思われます。
 那須塩原市埼玉には、明治22年に造られた「埼玉開墾墓地」があり数十の墓碑が立ち並んでいます。門柱石には大平らの名が刻まれ、この地に生涯を埋めた入植者たちの奥津城であることを示しています。やや離れた西方に「埼玉公民館」があり、敷地の一角に大正3年撰文の大きな「那須東原開墾碑」が建っています。碑文には開墾事業へ傾けた苦心が簡略に述べていますが、先人たちはこの那須野の地に自負を持って埼玉とのゆかりを記るしたように感じました(碑文の全文はこちら(PDF:176KB)に掲載しました)。

参考 熊谷市史編さん室2013「調査報告 那須野ヶ原の開拓地をたずねて」『熊谷市史研究』第5号
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写真1 「那須東原開墾碑」
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写真2 「中村孫兵衛」(1854~1933) 肖像 1922『埼玉県大里郡制誌』より転載
     那須野ヶ原の開墾を決意したのは26歳頃になる。
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