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「もの」と「ひと」の旅―12 ―百済で使われたつぼ― [紀行]

 櫛挽台地の縁辺部に当たる奈良―中条―上之―池上付近はかつては湧泉が多くみられ、派生する小河川や水路により農業水利として古くから活用され、貴重な水源地は神の住まうところとして社や祠が建てられその環境を守つていました。
 平成3年に行われた諏訪木遺跡(上之)の発掘調査では、小河川跡から祭祀遺物が多量に出土し、この須恵器が見つかりました。筒形寸胴の体部に朝顔のように大きく広がる口縁がつく「広口壺」なのですが、よく見る壺や甕とはかなり異質で発見当時から注意されていました。6世紀後半以降の「中の山古墳(さきたま古墳群)」と桜山窯跡(東松山市)、末野窯跡(寄居町)で同形品が出土したことから、県内での生産、埋納が確認されました。この須恵器壺は「有孔広口筒形土器」「平底短頸壺」と呼ばれ韓国の古墳上に埴輪のように配列された例(伏岩里2・3号墳―全羅南道羅州市―5世紀後半から6世紀前半)が知られています。須恵器の製法とともに日本にもたらされた形と使用方法のようです。日本国内では九州北部、近畿地方、伊勢地方と北関東地方から多数発見されており、百済からの渡来人のもたらした器物のひとつと考えられているようです。
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写真1 諏訪木遺跡出土の須恵器壺

参考文献 穂積裕昌 2018『伊勢神宮の考古学』―北野遺跡
     田口一郎 1995「平底短頸瓶覚書―東国の渡来文化研究 Ⅰ」『群馬考古手帳 5』
     坂 靖     「考古資料からみた百済と日本―生産工人の交流―」
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